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第26話 道場





 何事もなく4月を迎えられたというのは、警視庁にとってとても喜ばしいこと。研究組織「RAT」による犯行が、未遂に抑えられたからだ。もしも杏樹が動いていなかったら、4月1日にばら撒かれる予定だったペスト菌によって、国は壊滅的な状況に陥っていた事だろう。

 過去彼女が解決してきた事件の中でも、トップクラスに規模が大きかったその事件。解決においてのMVPとも言えるくらいの働きをした杏樹は、現在ある道場へと足を運んでいた。


「……ここで間違いないネ」


 バイクを停めてその道場の名を確認すると、杏樹は自分をここへと呼んだある人物にメールを送る。道場の名は、「九十九つくも道場」。都内のある場所でひっそりと活動している、剣道を教わることができる道場だ。


「……あ、いたいた。お〜い、杏樹!」


 玄関から出てきたと思えば、門の前で立ち止まる杏樹へと駆け寄る者。それは、杏樹と同じ正義執行人である夏怜だった。杏樹をこの道場へと呼び出した張本人である。

 夏怜がその九十九道場の門下生である……、という訳ではない。現に彼女は、道着なんかは着ておらず、私服で杏樹を出迎えていた。


「2ヶ月半ぶりくらいだよネ? 全然お仕事被らなかッたから、元気してるかな〜ッて思ってたヨ」


「んね! でも、杏樹が居なくても1人で動けるくらいには慣れてきたし……逆にいい機会だったのかも?」


 久しく会話どころか会ってすらいなかった彼女達は、この2ヶ月間にあった事を語り合う。これまで老若男女問わず誰も彼もを殺してきた杏樹とは違い、夏怜はまだ人を殺したことがない。正義執行人という仕事の都合上、いずれそんな機会が来るのかもしれないが……。少なくとも、この2ヶ月間でそんな事件は起こらなかったようだった。

 一方杏樹はと言えば、前半こそ夏怜と同じように目立った事件は起きていなかったものの、後半で「RAT」による例の事件が起きてしまったせいで、かなり疲労してしまっていた。

 互いの身の上話をしながら廊下を歩いていると、しばらくして2人は道場の手前へと辿り着く。夏怜は慣れた足取りで道場の中へと入っていったが、杏樹はそれには着いていかずに、中で行われている稽古をジッと凝視する。


「……ァ〜、アレか。大きいからすぐわかッていいネ」


 杏樹が腕を組みながら視線を向けた、その先。そこには、慣れぬ手つきで竹刀を扱う、白色の道着を着た鈴佳が居た。夏怜によると、鈴佳は病院でのリハビリを終えた最近、この九十九道場に入門したらしい。彼女が暮らす施設とは距離が近いし、自分を自分で守るために強くなりたいという思いが決まり手となって入門したのだそう。

 道場なんて行かなくても、人智を超えた能力を鈴佳は持っているというのに。本人には言えぬくらいのブラックジョークは口に出さず、胸の内に留めながら稽古を見ていると、そんな杏樹に道場から近づいてくる者が居た。


「こんにちは。……鈴佳くんの関係者のお方ですな、話は聞いております」


「ン、はイ。こンちわ」


 杏樹に声をかけたのは、立派な白色の髭を生やした白髪の男性。黒色の道着を着ている上でのその容姿は、まさに師匠という言葉を連想させる。これまで杏樹が対峙してきた強者達程ではないが、一般人という範疇の中では中々に強そうな気を帯びている彼。こういう人を達人と言うのだろう。杏樹は細やかにそう感じていた。


「儂はこの道場の館長。九十九豹仁ひょうじんという非常に覚えずらい名前だ、なんとでもお呼びください」


「……朽内、で〜す。よろしくネ、九十九さン」


 別に度々会うような関係になる訳じゃないだろうし、杏樹は改まった態度なんて使わずに九十九へと返答をする。今日ここに来たのだって、夏怜に久しぶりに会うのと、鈴佳の様子を見るのが目的。別に入門なんてするつもりもないから、きっと今日一度きりの関係になる。

 そんな感じで軽く互いの自己紹介を終えると、九十九は道場の方へと歩き出す。


「こんな所で立ち話もなんだし、どうぞ中で適当におかけください。見学者用の椅子は毎日用意しております」


「ンじゃあ遠慮なく。……失礼」


 道場に入るのなんて、初めての経験。普段ならば道場へと入る前に挨拶なんて絶対にしない杏樹だが、館長という偉い立場の人が近くに居る以上、しなかったら何か言われるかもしれない。そんな面倒事は避けたいので、それっぽい事を呟いて、杏樹は道場の中へと入っていく。

 杏樹が歩みを進めていくと、彼女に気づいた門下生が元気よく「こんにちは!」なんて挨拶をする。その声を聞いた門下生達は、それに釣られるように稽古を止めて、風船が割れたかのような大きな声で「こんにちは!」。いちいちうるさいなァ……なんて内心では思いつつ、適当に笑みを浮かべながら杏樹は九十九に案内される方へとついて行く。


「元気が良いでしょう。大きな声を出すと体が温まり、動きが良くなる。そんな挨拶をされた方も、気持ちがいい。だからうちの道場じゃ、挨拶の時も大きな声を出すことを基本としてるんです」


「なるほどナルホド〜……」


 挨拶が止むと、それに合わせて語り出す九十九。別に声なんて出さなくても、強い奴は強いと杏樹は知っている。だが、それを口に出す必要もない。適当に相槌を打ちながら、杏樹は椅子へと腰をかける。左隣には夏怜が、右隣には九十九が座っているという状況だ。

 椅子に座る杏樹と目が合った鈴佳は、軽くはにかみながら杏樹にぺこりと礼をする。仈湧村に居た時のクールな鈴佳も素敵だったが、今みたいに失った人間味を取り戻しつつある鈴佳も素敵だ。穢れを知らない純粋無垢な少女なのは、隣に居る夏怜もきっと同じ。……2人は友達になっているようだし、3Pというのも杏樹の選択肢に入ってきた。問題はどう犯るか……なんて考えていると、そんな杏樹に九十九が言葉をかける。


「……鈴佳くんは、何か他のスポーツでも習っていたのですか?」


「エ、……ン〜。……習ってはいないケド、興味はあッたみたい」


「そうですか。技や体の動きの吸収が他と比べて早いのでね、素晴らしい才覚だと思いますよ」


 杏樹の言ったことは、勿論今適当に考えたデマカセ。技術の吸収が早いというのはきっと、これまでの鈴佳の生き方が関係している。まともに喋ったことのないような男の家に住むという困難を乗り越えてきたのだから、些細な技術を吸収するなんてことは、彼女にとっては容易なことだ。

 稽古を進める鈴佳の姿を見ていると、彼女とは反対側の方で、竹刀と竹刀がぶつかり合う強烈な音が聞こえてきた。道場内に響き渡るその音に釣られて、杏樹はその音の方向へと顔を向ける。


「……九十九さン、あの女の子は?」


 杏樹の視線の先に居たのは、黒い道着を着た2人の人間。1人は、明るめな茶色の長い髪をなびかせて、竹刀で連撃を続ける女性。もう1人は、その攻撃をひたすら竹刀にて捌き続ける、黒髪の眼鏡をかけた男性。

 杏樹が注目したのは、勿論その女性の方。竹刀を振る度、道着が弾けてしまいそうな程に揺れてしまう乳房。それに惹かれて、杏樹は衝動的に九十九へ質問をしてしまった。


「あれは……、儂の娘。桜李おうりって名前です。桜って書いてオウ、季節の季って書いてリ、桜李。いい名前でしょう」


「桜李ちゃン。いい胸……じゃなくて、いい名前ですネ。ハイ」


 思わず、考えていたことをそのまま話してしまいそうになった杏樹。というか、もろに言ってしまっていた。耳が遠くなりつつある九十九だからセーフなのであって、もし会話の相手が他の人間だったなら、間違いなくアウトだっただろう。

 だが、杏樹の近くにはもう1人の人間が座っている。その会話を横から聞いていた夏怜は、杏樹の発言を見逃さなかった。そして、杏樹に思う。「桜李さん、確かに胸大きいよなぁ〜……」と。純粋な夏怜は、杏樹を疑う気持ちなんて持ち合わせていなかった。


「親バカなのかもしれませんが……、あの年齢であの能力は、当時の儂を優に超えています。ま、まだまだ動きが直線的すぎますがね」


「……剣道とかはよく知らないケド、あンだけ竹刀を振り回し続けるッて凄いナぁ」


 鬼の気迫のようなオーラすら感じてしまう、桜李の竹刀の扱い。圧倒的な力とスタミナで竹刀を振り回す桜李が剛ならば、そんな彼女の攻撃を受け流し続ける彼は柔であろう。揺れる胸のせいで桜李に目が行ったものの、本当に凄いのは、桜李ではなく彼の方だ。


「……彼も凄いでしょう。彼は柳内陸斗やなうちりくと、昔からずっと桜李と一緒にこの道場で研鑽を積んできました」


「桜李ちゃンも凄いッちゃ凄いケド……あの受け捌きの能力は目を見張るネ」


「小さい頃からずっとあの2人で鍛錬させてたのもありますが……あれは才能の域です。攻撃も強くなれば日本代表クラスになれるかもしれないんですがね」


 最強の矛と、最強の盾。桜李と陸斗を表す言葉としては、それが最適解だった。3分間ひたすら竹刀を振り回すという稽古を終えた桜李は、白色のタオルで汗を拭いながら杏樹達が座っている椅子の方へと近づいてくる。

 九十九が呼んだ訳でもないのに、いったいなんだという顔を浮かべる杏樹。九十九が座る椅子の前で立ち止まった桜李を見て、九十九は口を開いた。


「終わったか」


「押忍。3分10セット、終わりやした」


 少し乱暴な言葉遣いで、桜李は実の父にそう返答する。3分間のあの連撃を、10回もやる……。出来ないことはないのだろうが、杏樹はそれを聞いただけで気が遠くなった。いくらインターバルが長くても、あの連撃は精神力だけで行えるものではない。強靭な肉体が前提としてあって、そこに精神力が追いついて、それを極めに極めてようやく行える特訓なのだ。

 平然とした顔でそれを済ませたと伝える桜李は、なんと強靭な女性だろう。笑みを浮かべながら桜李を見つめていると、それに気づいた桜李は、杏樹に向かって言葉をかける。


「……鈴佳と夏怜から話は聞いてるよ、朽内さんだろ? オレは桜李、よろしくな」


「あ、苗字は知ってるンだ。名前は杏樹、好きに呼んでネ」


 アニメや漫画でしか見たことがない、一人称がオレの女の子。いわゆる、オレっ娘というやつだ。女らしいそのビジュアルには似合わないような男勝りの口調が、杏樹の欲へと突き刺さる。密かに狙う女が、また1人増えた。


「……もうお前も23だろ、初対面の方には敬語を使えとあれほど……」


 桜李と杏樹の会話を横で聞いていた九十九は、実の娘の言葉遣いを気にして注意をする。義を重んじて礼を尽くすという武道の世界に居る人間としては、確かにありえない言葉遣いだ。酷すぎる訳でもないが、まずは敬語というのが普通だろう。


「うッせ〜、いいんだよ! これから仲良くなるから。な、杏樹!」


「そうだネ、あたしも仲良くなりたいと思ッてるヨ」


「ほら!」


 互いに思っている「仲良くなる」の意味は違いそうだが……。妙に馴れ馴れしい桜李のテンションにも、杏樹はしっかりとついていく。これも、好みの女を抱くためだ。

 言い返そうとはするが、言い返す言葉が見つからない九十九。そんな彼を補助するかのように、桜李の後ろから声をかける者が現れた。


「僕は館長の言う通りだと思うよ、桜李」


 その声が聞こえる方向、背後へと桜李は振り向く。そこに居たのは、さっきまで桜李と稽古をしていた陸斗だった。人差し指で眼鏡の位置をクイッと直しながら、指摘をする陸斗。そんな彼の顔を見て、桜李は不満げな顔を浮かべながら返答をする。


「……お前はいつも親父側につきたいだけだろ、陸斗」


「別にそんなんじゃないよ。落ち着きを知らないから攻撃の後に隙ができて……」


「そうやって気に入られようとするの、辞めろって。気持ちわりぃ」


「……話にならないね。これだから単細胞は」


 陸斗の言葉を最後まで聞くこともなく、彼に詰め寄ろうとする桜李。今にも喧嘩が始まってしまいそうな雰囲気を察知して、九十九はやれやれという顔を浮かべながらその喧嘩を止めようと間に入ろうとする。

 九十九が椅子から立ち上がった、その瞬間。その時には既に、杏樹が2人の間に入り込んでいた。椅子に座っていた九十九は勿論、互いに向き合っていた桜李と陸斗も。杏樹が動き出す気配を察知できた人は、杏樹の左隣に座っていた夏怜ただ1人だけだった。


「喧嘩はダ〜メ、仲良くしなヨ。お客さンが見てる前で喧嘩なンてシたら、2人ともその館長に怒られちゃうでしョ」


 桜李と陸斗に対して一方的に肩を組んで、杏樹は呟く。気づいたら、杏樹が目の前に居た。かなりヒートアップしていた2人は、蛇に巻き付かれたかのようなその杏樹の動きに萎縮して、強制的に高ぶっていた気持ちを冷静にさせられてしまった。


「……彼女の言う通りだよ。どんな稽古をしていても、精神的に未熟じゃ意味が無い」


 肩を組まれた杏樹の腕を払って、陸斗は桜李に背を向けながらそう話して去っていく。またその言葉に乗せられてしまいそうになったが、桜李はなんとか拳を握りしめながら自身をセーブする。


「……自分から攻撃してくる度胸も無ェ腰抜け野郎には言われたくね〜ッつーの」


 頭をガシガシと掻きながら、同じように桜李も杏樹の腕を払い、去っていってしまった。仲が悪いのなら付き合ってる可能性も低いんじゃ……なんて勝手な推測を進めていると、杏樹の背後に居る九十九が口を開いた。


「……すみませんね、後でキツく言っておきますんで……」


「ァ〜、全然。あの2人は仲が悪いのカナ?」


 余裕といった笑みを浮かべて、杏樹は再度自身が座っていた椅子へと座る。


「別に仲が悪いという訳じゃないんですが……。儂も老い先短く、この道場の館長をあの2人のどちらかに引き継がせようとしているんです。ところが、その話を聞かせた半年前くらいから、何だか2人の間がピリついてしまっていて……」


 2人の仲が悪く見えるのは、この道場の跡継ぎ問題のせいだと九十九は語る。本来ならば、実子である桜李が跡を継ぐべきなのだろうが……陸斗も言っていた通り、彼女は精神的にまだ未熟。それならば、精神的に落ち着いている陸斗を館長にした方がいいんじゃないか。九十九は、今現在もそれを悩んでいた。


「大変だネ、館長ッてのも」


「いえいえ、これも儂の責任です。……それより、昔なにか武道でもやっていましたか?」


「武道……は別にシてないケド、スポーツなら」


 稽古を見ながら、言葉を交わす2人。戦闘の天才と、経験を積んできた達人の会話。国宝級の光景だ。九十九道場の館長である九十九豹仁が急逝したのは、この3日後のことだった。













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