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第22話 黒死病





 仈湧村での事件から、約2ヶ月の時が経った。この2ヶ月の間、特に目立った事件は起きたりしておらず、杏樹1人でも簡単に解決出来るような事件が2週間に1回起きる……それくらいの頻度だった。

 3月という季節の変わり目に入って、世間では風邪が大流行していた。それも、ただの風邪やインフルエンザではなく……新型として政府に認められたウイルスだ。不幸中の幸いは、現代の医療ですぐに作れるワクチンや薬があるという点。新型とは言われているものの、過去に流行したウイルスと少し成分が似ているらしく、とても早く作れたという訳だ。

 そんな中、杏樹の同居人であるめるも例に漏れずその病気にかかっていた。


「……ぁ゛〜、……だるい……」


 症状も様々だ。発熱や頭痛、喉の痛みに咳、倦怠感や筋肉痛まで。人によるとはいえ、その病気にかかったら多種多様な症状に襲われることだろう。今のめるもそうだった。高熱である39度に、頭痛や筋肉痛。寝返りを打つだけでも唸ってしまうくらいの症状の重さだ。


「ン〜……中々熱下がンないネ。体拭くから、少し冷たいケド我慢して?」


「ん……」


 水に浸したタオルを絞って、ベッドに横になるめるの体を拭いていく杏樹。季節の変わり目に差し掛かると、めるはいつも風邪をひいてしまう。彼女を看病するのにも、杏樹はもはや慣れてしまっていた。

 額や腕、首はもちろん、着ているパジャマを捲って腹や腋、果ては鼠径部そけいぶまで……。発熱している相手には、一切欲情しないのだろうか? 杏樹は、際どい所を拭く時も、まったく平然とした顔で拭いていた。普段の杏樹ならば、こんな状況に耐えられるとは思えない。


「……こんなもんカナ。頼んでたプリンとかゼリーは冷蔵庫にあるケド……持ってくる?」


 めるの体を一通り拭き終わると、杏樹は立ち上がって彼女にそう問いかける。


「……んや、大丈夫。水だけここにあれば……」


「ン、わかった。そろそろ行くから……辛くなッたりしたら連絡シて? 善処するから」


「わかった……」


 どうやら杏樹は、なにか予定があるようだった。予定と言っても、杏樹のことだから、大抵は警視庁に呼び出されたか、女と遊ぶ時。めるがこんな状態なのだから、流石に女と遊ぶほど能天気ではないだろう。その通りで、杏樹は警視庁に呼び出されていた。

 軽くめるの頭を撫でて、杏樹は去っていく。普段は果てしなくだらしないのに、弱っている時だけはこうやって優しくしてくる……。典型的な屑のやり方だ。本人すらそれは無自覚だが、ソレにめるは少しきゅんとしてしまう。悪い女とは分かっているが、その心には抗えない。











「……だいぶ寒さも落ち着いてきたなァ」


 季節の変わり目という名の通り、冬の寒さもだいぶ落ち着いてきた。バイクを走らせていると、杏樹はそれを顕著に感じる。冬の風は冷たく、吸ったら凍てついてしまいそうな程だが……それも少し暖かくなってきた。

 しばらくバイクを走らせて、杏樹は警視庁に到着する。なるべく急いで来い、との事だったが……久しぶりに重大な事件でも起ころうとしているのだろうか? そんなことは気にせず、杏樹はポケットに手を突っ込みながら自分のペースで玄関の方へと歩いていく。ちょうど杏樹がロビーに入ろうとしたところ、どこかで見たことのあるような人物が前から歩いてきた。


「あ、朽内さん! お疲れ様ですっ!」


 にぱっと笑顔を浮かべて、敬礼をしながら杏樹に声をかける人物。それは、先日岬の病室で出会った黒音だった。


「ン、お疲れ様。呼び捨てでもいいヨ」


 交番勤務から凄まじいペースで進んできた黒音の事だ。これから彼女が出世していけば、岬までとは行かずとも、度々出会うくらいの仲にはなるだろう。歳も近いようだしと、杏樹は黒音にそう言っておく。


「……いえ、警察は礼儀が大切ですので! それに、私自身朽内さんに憧れていますし……このままで行かせてもらいます!」


 しかし、黒音は杏樹に言われたことをキッパリと断る。普通に考えれば、彼女の感性が真っ当だ。遊馬も岬も、杏樹には協力して頂けているという立場なのに、呼び捨てや名前呼び。同じ正義執行人という同僚になる夏怜とはまた違う。はっきり言って、警察なのにも関わらず人を選んで言葉遣いを乱している彼らの方が異常だろう。

 だが、彼らは他の警察官と違い、杏樹の印象を決定づけてしまった、ある過去のエピソードがある。彼らの人生を語る上で、朽内杏樹という人名は絶対に欠かせない……というくらいには内容の濃いエピソード。その過去が関係しているのだ。


「そッか。……確かに、あの2人はまだしも、黒音ちゃンがあたしのコト呼び捨てにしてたらいずれ上司から注意とか入りそうだもんネ」


「そ〜ですね……清水先輩とかほんと凄いです」


「あたしでも怖いくらいだもン、まァ年上だからいいけどサ。通報でも入ッたノ?」


「通報……あ、そうだった!! 先輩を待たせてるので私は急ぎます……」


「ありゃ、呼び止めてごめんネ」


「大丈夫です、それでは!」


 急いで車の方へと走り去っていく黒音。あんなに元気な上、警察としての成績も優秀。努力せずとも結果を残せる奴と、地道に努力して結果を残せる奴がこの世の中には居る。黒音はきっと、後者の方なのだろう。

 努力家でなんでも完璧な子は、仕事中の表の顔と誰にも見せない裏の顔の差が激しい……なんて言う。しっかりとそれを感じさせない彼女は、ずっと何か1つの事だけを信じてこれまで頑張ってきたのだろう。今まで関わってきたことのない人種である黒音に思いを馳せながら、杏樹は呼び出された部屋へと向かう。


「……ん、……わ! 鼠……? 最近よく見るけど……そういう季節なのかな」


 車に乗ろうとしたその時、黒音は車内の裏から自分の方へと駆けていく鼠の姿を見た。踏み潰したりはしなかったが……いきなりの事だったので、黒音はビックリしながら鼠を目で追いかけて、ようやく車の中に入った。

 エレベーターで上階へと上がり、廊下を歩いていく杏樹。いつも使う部屋とは真逆で、いつも使われない……それどころか、見たこともない部屋に杏樹は呼び出されていた。


「……来たか」


 いつになく神妙そうな顔を浮かべる岬は、入ってきた杏樹を見るなり開口一番にそう呟く。扉を開いた先に見えたのは、そんな岬の姿だけだった。遊馬等の警視庁のお偉いさん方は居なければ、同じ正義執行人の夏怜も居ない。岬と2人きりの空間だ。

 杏樹が向かいの椅子に座ると、岬は何も話さずに大きな封筒から1枚の紙を取り出した。


「……コレは……」


 渡されたその紙を見つめる杏樹。その紙には、ドラマやアニメ、漫画でしか見たことがないような文が書かれていた。なにも、文の内容がそのフィクションらしさを醸し出している訳ではない。問題は、その文体である。杏樹はまず、文の内容よりも、その気味の悪い文字の書かれ方に目が行った。1文字1文字が、大きさや形の違う四角形によって囲われている。その奇怪な文は、一般的には怪文書と言われるものだった。

 その文体に慣れて、杏樹はようやく内容を読んでいく。またしても杏樹は驚いた。その怪文書のような文体に負けないどころか、それよりもインパクトのある内容だったからだ。


「国家の犬どもへ。国家機密である正義執行人の存在を国民に発表せよ。期日は4月1日。期日までに発表しなければ、ペストを改良したウイルスを国全体に流す」


 1枚目は、これでおしまい。次の文からは、2枚目へと突入する。


「先日から流行し始めたウイルスも、我々が研究していたものである。警察としてのメンツを選ぶか、国民が苦しむのを選ぶか。その足りない頭で考えたまえ」


 これでどうやら文は終わりのようだ。……こりゃあまずい。杏樹もそう察してしまう。正義執行人の存在は、怪文書に書かれている通りの国家機密。つまり、この怪文書が送られてきているという時点で、あることが確定してしまう。それは、警視庁内部……もしくは相当な国家の上層部の人間が、正義執行人の存在をこの怪文書の送り主にリークしてしまっているということ。自作自演の可能性もあるとはいえ、少なくとも、裏切り者が居ることは確かなのだ。

 非常に面倒な事態になった。岬が不機嫌そうな顔を浮かべているのも、きっとそれが理由。いつも使う部屋を使わないのも、盗聴等の危険性を避けるため。岬は、疲弊していた。退院して早々に課された、周りの人間を疑わなければいけないという状況に。


「……ン〜〜、……困ったネ」


 2人共、全くと言っていいほどに打開策が思い浮かばなかった。正義執行人の存在を全国民に発表してしまえば、警視庁は愚か、国家そのものの責任問題になってしまう。これだけは避けたい。だが、それを避けて発表しなければ、過去に人口の3分の1を死に追いやったペストというウイルスを改良したウイルスを国全体に流すとのこと。

 嘘っぱちに決まってる……なんて事は、全然言いきれない。今現在流行しているウイルスは、出処が全く分からない不明の物で、人工的に作られた可能性があるという研究が進んでいるからだ。この怪文書に書いていることは、全て本当と思った方がいいだろう。


「……上層部の人間や首相が、某所で連日会議をしているらしい。これは、日本国の存続に関わる一大事だ。上の判断で国が滅んでしまってもおかしくない」


 黒死病ペストは、いつの間にか聞くことがなくなってしまっていたウイルス。アフリカの諸地域では未だに根強く残っているらしいが、抗生物質という治療薬を手に入れた人類は、たとえ万が一ペストに感染したとしても治せる状況下にある。だが、今はそんなこと関係ない。ペストを改良したウイルスと書いてあるのだから、抗生物質が効かなくなっていたとしてもおかしくはないだろう。

 そんなウイルスが日本全体で流行ってしまえば、待っているのは医療崩壊と多数の国民の死。となると、やはり正義執行人の存在を明かした方がいいのではないか。岬は、杏樹に問いかけてみる。


「……お前1人の意見で変わる訳じゃないが……杏樹。お前は、選ぶとするならどっちを選ぶ?」


 特に悩むこともなく、杏樹はその岬の問いに口を開いて答える。


「どっちッて言われてもネ……フツーに、ソレを書いた奴を特定して殺しゃいいンじゃないノ?」


 予想外の答えに、思わず目が点になってしまう岬。そんなことは現実的ではない。たとえ上層部の会議でも、絶対に出ない意見だろう。

 杏樹という最強の女でも、それが出来ない理由。それは、レナが書く「RENA」や、怪盗ヴァイパーから送られてくるような予告状のような、淡くぼんやりと見える犯人の像が今回は無いからだ。簡単に言えば、犯人の情報が全くないということ。完全な匿名によるこの怪文書は、犯人の名前も特定出来なければ、居場所も特定出来ない。半ば詰みの状態なのである。


「あのなぁ……情報が何も無いんだぞ? そう簡単に特定なんて……」


「ま、確かに警察だけじゃムリだろうネ。相手はきっと、研究倫理なンてガン無視した裏の研究組織。表を生きるあたし達には、絶対に分かる訳がナイ」


「それならどうやって特定なんてするんだ」


 困惑している岬に、杏樹は悪い笑みを浮かべながら呟く。


「目には目を、歯には歯を。表には表を、裏には裏を……ッてネ」











「……そんで、ウチに連絡してきたっちゅ ~ 訳かぁ」


「そうそう、何とか頼めないカナ〜ッて。京ちゃンくらいしか頼れる子居ないシ、断られたらお国が危なくなっちゃう」


 頼みの綱を1本だけ知っていると岬に伝えて、警視庁から抜け出してきた杏樹。そんな杏樹が外に出て電話をかけた相手は、裏社会の中でもかなりの規模を誇るマフィアである、百鬼の幹部。度々杏樹が世話になったりしている、道楽京だった。花恵が居る風見鳥組とも迷ったが、規模的にも百鬼に捜索を頼んだ方が確実だと思い、杏樹は京に頼んだのである。


「……櫻葉の借りがウチらにはあるし、状況からも考えて断る訳にはいかんな」


「でしょでしょ?」


「けど、随分不思議やなぁ。自分のケツは自分で拭く精神のポリちゃんが、目の敵である裏社会に頼み事なんて」


 本来なら、こんなシチュエーションはありえない。警察が裏社会に泣きつくなんてこと。厳密には、杏樹が裏社会に頼み事をしているだけだが……シチュエーションはさほど変わらない。国の正義である警察が、裏社会の手を借りて事件を解決するということは。


「……コレはあたしが勝手に頼ンでるだけだからネ。もしバレたら怒られそうだケド……適当に言い訳すれば多分大丈夫」


「んは、正義執行人って随分適当なんやな。ウチらにも仕事があるから、全ての時間を捜索に使うことは不可能やけど……出来るだけ頑張るわ。ウチかて、そんな意味わからんウイルスかかって死にとうないしな!」


 珍しく、少し低く暗いトーンになっている杏樹の声。電話越しとはいえ、京はそれを感じとっていた。流石にプレッシャーを背負っているのか、はたまた何か違う事情があるのか。それは彼女に分からなかったが、なるべくそんな杏樹を励まそうと明るいトーンで京は話す。


「コレでたッた1つの貸しが無くなっちゃうケド……ありがとネ」


「ん! 早速ボスとか他の幹部に言うてくるわ、電話切るで!」


 電話が切れた杏樹は、携帯をポケットに入れて、そのまま自身のバイクに向かって歩いていく。偶然そんな杏樹と鉢合わせた警察官数人は、彼女に挨拶することは愚か、明らかに杏樹を避けるような動きで警視庁へと戻っていく。誰が見ても、杏樹のその殺意に似た感情は明らかだった。ドロドロと滴り落ちるような、ビリビリと痺れ上がるような、そんなオーラ。それが彼女からは滲み出ていた。

 杏樹にとっても、それは初めての感情だった。普段は無感情な杏樹が、心を動かしている理由。それは、同居人のめるが、奴らが研究していたウイルスにかかってしまっているからだ。自然的に発生したウイルスならまだしも、人工的に作られたウイルスがめるを苦しめているという事に、少しだけ苛立ちに似ている感情を覚えている杏樹。彼女らしくない。

 無機質で、残酷で冷酷な、正義という面を被った殺戮用ロボット。杏樹のそんな印象が、少しずつ剥がれて行っている……?


「……さァ〜て、残りの日数は3週間を切るくらイ。上手く行くカナ」


 余計なことを考えるのをやめて、杏樹はバイクに跨る。期日は4月1日まで。向こうから出てきた2つの提案を覆す行動を、正義執行人は出来るのだろうか────?













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