視界が、脳が、真っ暗になって。体が言うことを聞かなくなって。私の世界が、閉ざされていく。
痛い、やだ、苦しい、助けて。闇の中でそう叫んでいると、しばらくして私はベッドの上で目を覚ます。眠る前のことは、全く覚えていない。夢の中で永遠に苦しみ続けるのが、私の人生なのだろうか。
誰か、助けて────。
「……生きてるゥ〜? 岬ちゃン」
住人達による猛攻を受けこなし、少し危なくなった時にはカウンターで差し返しながら、杏樹は声を響かせる。一心不乱になって襲いかかってくる住人達は、さながら一向一揆にて、極楽浄土を信じて戦った信徒達のよう。
襲ってくる住人の中には、警棒を手にした警察官すら居た。この村の悪事は、警察すらグルなのか。岬はそんな汚いことを許せない人間だからか、その警察官なんかは容赦なく手刀で失神させた。
「…………なんとか、なっ!」
杏樹や夏怜ほど、驚異的な強さを持っている訳ではないが……岬も警視庁の中ではかなりの武力を持っている人間。たとえ束になってかかってきているとはいえ、ろくに人を殺したことも無さそうな住人達相手に負けるほどヤワではなかった。
20分程度戦って、ようやく攻撃の波が落ち着いてきた。戦闘不能になった住人や、命を落としてしまった住人。岬は脚を撃って戦闘不能までに留めておくという情けを持っていたが、杏樹は自身の体が危なくなったら容赦なく住人を殺害していた。時間が経てば経つほど、地面に降り積もった雪が赤色に染まっていく。
「…………八尺様……」
「……生贄……」
2人へ攻撃する時の住人は、全員が全員そんな言葉を発していた。きっと奴らは、八尺様へと捧げる生贄を杏樹と岬にしようとしているのだろう。本当に信じているのか、それとも洗脳でもされているのか……。奴らの狂気的な笑みからは、それが読み取れなかった。
暴徒と化した住人達を、なんとか鎮圧した2人。死者も多数出ているが、もはやそれは仕方の無いことだった。一息つく暇ができた杏樹は、ため息をつきながら体を伸ばす。
「……なんか無駄に疲れたナァ」
護身用に持っていた拳銃をしまいつつ、岬も自身の腰に手を当てながら深く息を吐く。杏樹と共に行動しているから自覚していなかったが、この4年余りで岬はとても強くなっていた。元々強かったとはいえ、その上を行くほどの成長力。精神的に弱い部分はまだ残っているとしても、肉体的な観点から見れば、日々の地道な鍛錬や事件解決によって鍛え上げられていた。
2人共、戦闘が終わったからか、少し油断していた。半ば置物と化していた八尺様。中に人でも入っていたのだろう、と戦う途中には考えていた。そんな岬のすぐ後ろで俯いて突っ立っていた八尺様が────。振り向いた瞬間と同時に、人間離れした速度で背後の岬へと攻撃する。
「っ、ぐ……ッ!!?」
背後からの、ありえない速度での攻撃。見えない範囲からの攻撃なんて反応できるはずもなく、岬は八尺様が強く横薙ぎに振った腕にクリーンヒットしてしまった。攻撃が当たったのは、脇腹。肋骨が何本か砕ける音がした。
人間によって繰り出された攻撃を受けたとは思えないほどの衝撃。岬は、車に轢かれたかのように吹っ飛んでいってしまう。雪がクッションになって、頭や怪我した体を強く打ち付けるということはなかった。
「…………ダミーじゃなかったンだ、意外」
あまりに突然のことすぎて、杏樹すら反応出来なかったその攻撃。その勢いのままに岬に襲いかかるようなら、無理やりにでも止めるが……、その1発で殺したと錯覚しているのか、八尺様は微動だにしない。攻撃をくらった岬の様子を見る限り、今のところは死に至らないだろう。そう解釈した杏樹は、八尺様の方へと近づいていきながら、奴へと言葉をかける。挑発だ。
顔を俯かせながら、ゆっくりと杏樹の方を向く八尺様。その様子は、もはや人間ではない。幽霊……怪異の類だ。高周波ブレードの先を八尺様へと向けて、杏樹はその様子を一度観察する。
「…………」
「……アレ? な〜ンか見た事あると思ッたら……村長の家の子じゃン。夏怜ちゃンはハズレを引いたネ」
奴の体が完全にこっちを向いてから、杏樹はようやく八尺様の正体を理解する。彼女は、昨日村長の家を訪れた際に現れた、可愛い未成年の女の子。背丈が高いし、住人達に利用されている……というよりは、村長に利用でもされているのだろうか。少なくとも、嫌々付き合ってるとか、そんな様子ではなさそうだが。
杏樹と対面した八尺様。見る限りは、怪異なんかではなく、明らかな人間である。そんな人間が、一発の攻撃だけで岬をあそこまで吹っ飛ばした……? 普通の人間じゃ、絶対にそんなことは出来ない。そう考えていると、俯き気味だった八尺様が杏樹へ目線を合わせてきた。
「…………わ〜お」
少ししか見えていなかった八尺様の顔。それを見てみれば、彼女が常人ではないということが分かった。顔に血管が浮き、眼は真っ赤に充血して……、肌の色はもはや赤や青を超えて、黒くなってきてしまっている。その姿は、悪魔にすら見えた。
杏樹ですら、こんな人間離れした人間と対峙するというのは初めての経験。きっと、自身の力を制御する脳の働きが失われてしまっているのだろう。人間は、実は自身で自身の小指を噛みちぎれるが、脳によって噛みちぎれないように力の制御が設定されている……なんて聞いた事がある人も居るだろう。その制御を外した……もしくは何者によって外されたから、奴は悪魔のような姿になってしまっている。
「……ッひェ、危な〜……」
高周波ブレードという得体の知れぬ刃物を向けられているのにも関わらず、八尺様はそんなの気にもせずに杏樹へと攻撃をする。ただ腕を横に薙ぐという、シンプルなその攻撃。しかし、八尺様のソレはシンプルなんかではない。人間じゃ出せないほどの速度を出している上、風を切る轟音が鳴り響くほどの一撃だ。杏樹は、命からがらその攻撃を回避した。当たり所によっては死んでもおかしくない。
高周波ブレードですぐに反撃。いつもの杏樹ならそうしていたのだろうが、今の杏樹は違うようだ。奴の実力が未知数だから様子を見る……というのは、50点の解答。杏樹は、奴に対する勝ち方を既に知っていた。
「あたしじゃなかッたらこンなの避けれないだろうネ。ねェ、そンなに好き勝手振り回しちゃッて大丈夫? ……聞こえてないか」
いずれの攻撃も紙一重で躱しながら、杏樹はもっと挑発するようにそう呟く。そんな挑発を、八尺様は受け入れたりはしない。目の前の獲物を駆除するだけ、ただそれだけ。その欲のままに動いている。
その欲の隙に付け入る事こそが、杏樹の確実な勝ち筋なのだ。このまま力を制御せずにフルパワーで攻撃を振り回し続けていれば、いずれその負荷に耐えられなくなって、奴の体が内部から崩壊していく。筋肉が破裂して、骨が粉砕骨折して────。そして、最終的には、死に至る。それが、唯一の脳の制御を外すデメリットという訳である。
つまり、このまま好きに攻撃を振らせてそれを躱し続けるだけで、杏樹は自動的に勝利する。なんの罪もない、鈴佳という人間の死を以て。
「…………っッ!!」
「……当てるコトが出来たらキミの勝ち、避け続けたならあたしの勝ち。どちらかのラストダンス、心ゆくまで楽しンでネ」
一言も発さずにただ攻撃を連打する八尺様に、杏樹は儚くそう告げる。証言者なんて、そこらにうじゃうじゃと転がっている住人達で大丈夫。……それに、今この状態の彼女を止めるのも至難の業。彼女が人間なのは知っているが、生憎救うことは出来ない。
彼女の死へのカウントダウンは、既にもう始まっていた。
10分もすれば、奴の体に異常が現れ始めた。杏樹に襲いかかってきた当初よりも、遥かに拳を振るスピードが落ちてきている。当たり前だ。どんなに脳の制御を解除したとしても、素の人間の身体的疲労は避けられない。いくらスタミナがあるボクサーでも、フルスイングを10分間し続ければバテバテになるのと同じだ。
もはや、そんないつまでも当たらぬ鈍器のような拳を避けるというのも面倒だ。奴が自滅する前に、この手で破壊してしまおうか。杏樹は心の中でそう考える。
「…………〜〜〜゛ッっッ゛!!!!!」
ああなってしまっては、もう自分の意思では攻撃を止められない。言葉になっていない奇声を上げながら、八尺様は杏樹へと強く拳を振り下ろす。
もういい。せっかくの美人が台無しだ。早く楽にしてやろう。大きく振りかぶって繰り出された攻撃を軽々避けて、杏樹は高周波ブレードで頭を切りつけようとした。心臓や首などの急所よりも、脳を狙った方が奴に対しては効果的だから。
「……待てっ!!」
そんな杏樹のカウンターを止めようと声を上げたのは、先程八尺様に攻撃をくらって負傷退場してしまっていた岬だった。肋骨が折れている上でそんな大声を出したら、そりゃ痛むに決まっている。脇腹を抑えながら、岬は軽く吐血する。
瞬時に高周波ブレードを奴に当てないようにしながら、杏樹は奴から離れる。岬の情が働いたのかと思ったが……どうやらそういう訳ではなさそうだった。拳を振り下ろした後、八尺様はそのまま前方向へと糸が切れたように崩れてしまった。様子から見るに、死亡した訳ではない。失神だ。
「……え〜ッと、どういうコト?」
黒く変色していた肌は、どんどんと色が引いていって、白い雪を彷彿とさせるようなきめ細やかな肌へと戻っていく。また何者かによって脳の働きが制御されたのだろう。そんな鈴佳の様子を見る限りは、放置していても構わないと考えて、岬に近寄りながら杏樹はそう口を開く。
「…………奴が気絶すると同時に、……夏怜ちゃんから連絡が来たんだ」
非常に顔色を悪くして、息も苦しそうにしながら、岬は語り始める。折れた肋骨が内臓に突き刺さっていたりしたら、充分それが原因で死んでしまうかもしれないのに、彼女はそれを恐れてはいなかった。自分の体のことは自分が1番よく分かる……というやつだろうか?
「夏怜ちゃンから? へ〜……なンて?」
「短くまとめるのなら…………、『その子は重要な意見参考人だから殺すな』、との事だ」
夏怜が居ない村長の家へと行った夏怜が、なぜそんな事を言えるのか。杏樹と岬は、現時点の状況じゃそれを知る由もなかった。だが、そんな意見が出る時点で、きっとただ利用されただけの人間ではないのだろう。2人は、鈴佳を殺さないという選択をした。
八尺様が失神してしまう、数10分前に
戸締まりは、当たり前のように厳重にしてあった。どんな扉も、どんな窓も。ただ1つ、2階にある窓の鍵が開いていなかったら、夏怜は侵入にもっと時間がかかっていた。
「……っ、と。……ここは……」
足音を立てずに、夏怜はその部屋へと足を運ぶ。その後、すぐに窓を閉めて……。鍵が閉まっていなかったその部屋の中を、携帯の光で照らしながら夏怜は確認する。
妙に無機質なその部屋。夏怜の目を引いたのは、本1冊すら並べられていない棚に飾られている、埃を被った写真立て。そこに立てかけられていたのは、ある家族写真。笑顔の男と女、そして……幼き鈴佳の姿がそこにはあった。映っている男は、きっと村長の野坂ではない。顔や身長が全く違う。
「…………これくらいかな」
写真立て以外には、他に気になるものは無い。その部屋を探索し終えると、夏怜は慎重に扉を開いて廊下へと出ていく。音を出さない扉の開け方なども、しっかりと把握している夏怜。そんな彼女の潜入に気づくことは、一般人じゃ不可能に等しいだろう。
音を鳴らさずに階段を降りていくと、夏怜は1度通ったことがある廊下へと出た。野坂を見つけたら……もしくは見つかったら、すぐに麻酔針で失神させて、無理やりにでも拘束する。それが夏怜のしようとしていることだった。
「…………、!」
テレビでも見ているのか、ガヤガヤとした音声がリビングから少しだけ聞こえてくる。夏怜は、こっそりとそのリビングへと近寄る。
元から少しだけ開いている扉の隙間から、夏怜はリビングの様子を見た。そこには、椅子に座りながらテレビの映像を見る野坂が居た。テレビには……時代劇だろうか? 雪が積もった和風な場所で、2人に襲いかかる多くの人間の定点映像が映っていた。
それが時代劇ではないと気づいたのは、ほんの少し経ってからだった。よく見ると、その映像は現在進行形で撮影されている映像。それも、戦っている2人の女性は、いずれも自分が見た事がある姿をしていた。間違いない。あんな特徴的なコーデをしているのも、あんな特徴的なオレンジの髪をしているのも……絶対にあの2人しか居ない。それは、杏樹と岬だった。
「ちっ、住人共は約立だずだな」
しばらく黙って画面を見ていた野坂が、急に舌打ちをしてそう呟く。主に野坂を観察していたが、それに釣られて、夏怜も画面を再度確認する。そのテレビの画面には、なんとか生き残った杏樹と岬、倒れている何十人規模の住人、……そして、岬の後ろで棒のように突っ立っている八尺様。鈴佳の姿があった。
「やっぱす、この手使うしかねが。仕方がねえ」
その呟きと共に、野坂は机に置いてある携帯を手に取って、液晶を指先でポチッと押す。……そして、押してから数秒経った、その時────。カメラですら確認できないような速さで、鈴佳は岬を攻撃した。その攻撃を受けた岬は、衝撃に耐えきれずカメラの外へと吹っ飛んでいってしまった。
衝撃的な映像だった。野坂が携帯の画面を押した瞬間、人が変わったように鈴佳は岬を殴り飛ばしたのだから。
「最悪は死ぬがもわからんが、こい使えば奴ら
でも殺せる。骨折程度で済むどいいが」
死ぬ……? 誰が? 奴らというのは、きっと杏樹と岬のこと。……あんなゲームで作った改造キャラみたいな動きをしている鈴佳が、それが原因で死んでしまう……?
それはダメだ。あの子はいい子だ。私たちの身を案じて、忠告してくれた。その時の様子から考えるに、鈴佳は自分が八尺様だと分かっていない。きっと、目の前の男に洗脳やその類をされているに違いない。
杏樹はきっと、得体の知れない化け物のようになってしまった彼女を救おうとはしないだろう。私が鈴佳を救わなければ。迫りくる死から。気がつけば、夏怜はリビングへと飛び出してしまっていた。
「……て、てめぇ……!」
「クズは黙って寝ておけ」
彼女が入ってきたと野坂が認識したその時。夏怜は既に、野坂の首筋に照準を合わせて、つけている手袋から麻酔針を発射していた。
普通の人間ならば、発射された麻酔針を認識することすら出来ない。首に何かが刺さったような違和感と共に、野坂は机に突っ伏して眠ってしまった。
「…………急がないと」
野坂が眠ったのを確認すると、夏怜はすぐさま彼へと近づいて、彼の携帯を確認する。携帯の画面は、まだ開いたままだった。これで携帯の電源を落としていた上、指紋認証ではなくパスワード式だったのなら、半ば詰んでいた。夏怜はほっとしたが、まだ安心しきるのには早い。
その画面には、制限解除ボタンという物が映し出されていた。きっと、このボタンを押したから鈴佳はあんな凶暴になってしまっているのだろう。急いで夏怜はそのボタンを押す。しかし、そのボタンは指紋認証式のようで、一度警告文と共に断られてしまった。寝ている野坂の手を掴んで、夏怜はそのボタンをもう一度押させる。今度は成功したようだ。
「……い、1分後……!? 早くしないとなのにッ……」
指紋認証が完了すると共に、画面に出された文言。1分後に再度制限が完了するから、それまでは待つしかないとのこと。焦りからせっかちになってしまっている夏怜は、一度深呼吸をして冷静になる。今自分が出来ることは……。
自身の携帯を開いて、夏怜は岬の連絡先を開く。そして、「その子は殺さないで欲しい」という事を急いで岬へと連絡をした。残りは、あと20秒程度。早く気づいてくれ。夏怜は、額に汗をかきながらそう願うことしか出来なかった。