旅館に戻った3人は、売店で買った適当な食べ物を一緒の部屋で食べて、夕飯を済ませる。そして、19時半に差し掛かった頃。何か書類のようなものを筆記している岬、早めに布団を敷いて寛いでいる夏怜、椅子に座りながら携帯を弄る杏樹……と、3人がそれぞれの過ごし方をしていた時。携帯の電源を落として、杏樹は椅子から立ち上がりながら2人に言葉を交わす。
「そろそろ温泉に入ろう! 3人で!!」
杏樹が目を輝かせながら提案したのは、この村の特徴である温泉に3人で入ろうということ。平日だからか、この旅館があまり混んでいる様子はないし、この時間帯ならばまだ夕飯を食べているという人も多いはず。今は絶好の時間帯だ。
「温泉……いいね、ご飯も食べたし行こっか!」
敷いた布団に寝転がりながら、夏怜は杏樹にそう返答する。とりあえずは1人確保、ここまでは杏樹の想定内。問題は……岬である。
「私は部屋の風呂でいい、お前ら2人でゆっくり浸かってこい」
「え〜……清水さんも行こうよっ」
これも、杏樹が危惧していた通りのこと。岬は、手に持っていたボールペンを机に置きながら杏樹の提案に拒否をした。いつもガードが固い岬のことだ。たとえ夏怜にお願いされようと、杏樹相手に裸を見せるなんてことは、絶対にしない。
しかし、その対策は既にしてある。杏樹は、薄ら笑いを浮かべながら岬へと近寄り、夏怜に聞こえないくらいの声量で、ぽそりぽそりとある事を岬の耳に向かって囁く。
「……あたしが夏怜ちゃンと2人きりになッたら、どうなるか分からないヨ」
それは、もはや犯行予告に等しいような言葉だった。録音データが存在していれば、脅迫罪として成立しかねないその内容。岬は、目を閉じて大きくため息をつきながら、ゆっくりとその場に立ち上がる。
「……お前、それでも本当に正義執行人か」
「さァ、何のことやら? それよりも早く行こうヨ、混ンじゃうよ!」
一瞬で仕方なく同行する決意を固めた岬。そんな岬のお叱りの言葉を無理やりシャットアウトして、杏樹はルンルン気分でそう口にする。
杏樹という人物を知れば知るほど、彼女は明らかに正義執行人に向いている人間ではないと感じてしまうのは、誰もが同じだ。正義の味方には似合わないくらい冷徹で残酷な事件の解決方法。それに加えて女癖も悪く、どちらかと言えば悪党よりな杏樹の内面。そんな彼女が正義執行人を任されている理由? そんなの単純。この国の誰よりも強いからだ。
「そンじゃ、温泉までレッツゴ〜!」
「いぇ〜い!」
「お〜……」
乗り気な2人と、明らかに乗り気じゃない1人。その3人の姿は、ゲームセンターに無理やり連れて来させられた家族の姿そのものだった。
事件の解決を目的に来ているのだから、楽しさなんていらない。もし彼女らの姿を見た人が居たならば、そう思う人もいるだろう。それは全くの逆である。常に糸を張り詰めた状態で居ても、それはしっかりとした休息には繋がらない。いつ犯人が姿を現しても、100パーセントの力を出せるようにする為には、オンとオフの切り替えはとても大事なのだ。岬はそれが下手だが、杏樹は対照的にそれが上手。夏怜もきっと、これから杏樹の背中を追いかけて、上手な方に回っていくのだろう。
切り替えが下手とはいえ、岬だって長らく杏樹と行動を共にしてきた。温泉へと続く廊下で彼女は、気持ちを切り替えることだって一流の警察官になるには大事だぞ、と自身に思い聞かせながら歩いていた。
「ふぅ〜〜っ…………」
そんなこんなで、温泉に到着した3人。着替えなども手早く済ませて、彼女達は早速同じ湯船に浸かっていた。髪がそこそこ長い杏樹とかなり長く伸びきっている夏怜は、軽く髪をまとめて入浴。2人は、いつもとは違うヘアスタイルのせいで雰囲気が全然違う、なんてお互いの顔を見て微笑みながら話していた。
温泉なんて滅多に入る機会が無い岬は、2人と対照的に、ボーッと天井を見つめるような姿勢でリラックスしながら湯船に浸かる。仕事のことなんか、1ミリたりとも考えちゃいない。彼女は彼女なりに上手く切り替えられているようだった。
「……そういえば、杏樹って……結構大きいよね。その、色々と」
湯に浸かって、体全体が温められているからか、それとも別の理由か。夏怜は、若干視線を逸らしながら杏樹に向かってそう呟く。裸の付き合いなんて経験したことがなさそうな、そんな初々しくて可愛らしい彼女。今すぐ抱いてしまいたいという欲望を抑えながらも、杏樹は優しい笑みを浮かべながら口を開いた。
「フフ、あたしだッて身長も胸も大きいケド……夏怜ちゃンだって人並み以上にはあると思うヨ?」
「そ、そうかなぁ……。というか、身長はいいとしても、怪盗やる以上は胸が邪魔で仕方なかったからさ。女の子を全うしてる杏樹が少し羨ましく思ってるんだよね」
数々の女を抱いて、数々の女をナンパして……そんな女が女の子を全う? なんて思う人も居るだろうが、夏怜は杏樹の女癖について何も知らない。体では覚えてしまっているが、自身が襲われそうになったという記憶すらない。だから夏怜は、スタイルもファッションセンスも良い杏樹が、理想の女像として少し羨ましく見えていた。理想にするには悪どすぎる女というのは露知らずに。
「ン〜……でも、怪盗は正義執行人をやる以上もう辞めるンでしょ?」
「今のところはね」
「じゃあ、これからは思う存分に女の子を全う出来るじゃン。よかったネ」
杏樹は、夏怜の方へと静かに体を寄せて、彼女の頭をぽんぽんと撫でながらそう伝えた。理想……つまり、憧れ。憧れの人にそんなポジティブなことを伝えられるのが嬉しくて、夏怜は思わず頬を緩ませてしまう。
「……へへ、」
そんな夏怜の姿を見て、杏樹は少し理性を抑えられなくなりつつあった。岬ちゃンもあんまり見てないシ……今なら少しくらいセクハラシてもバレないし、許してくれるンじゃ? なんて魔が差した。
まずはそのたわわに実った胸から……なんて手を伸ばそうとした瞬間。杏樹の目の前に、人影が現れた。
「おい」
思わず吹き出してしまう程のナイスバディが、杏樹の目の前に。夏怜よりは少し控えめだが、それでもボリュームのある胸のサイズ。腹筋もそこそこ割れている。見慣れない姿で、それが誰かと思えば……。
「……ど、どうしました、岬ちゃン……」
いつもかけている眼鏡をかけていなかったからすぐに判断出来なかったが、よく見るとそれは岬だった。普通なら知らない人にいきなり「おい」なんて言われる方が怖いのだろうが、杏樹は逆。お互いのことを知っている岬だからこそ、ビビり散らかしていた。今から夏怜の体をこっそり触ろうとしたんだから、当然だ。
「今から露天風呂に行く。お前らもついてこい」
だが、どうやら岬は普通に温泉を堪能しまくっているようで、杏樹の犯行など全く見てもいなかった。杏樹にとっては、バレずに済んで岬の体も詳しく見れて、とてもラッキーである。
「あ、そっか! 露天風呂が有名なんだっけ、行こう行こ〜う!」
「めッちゃ寒そうだケド……」
浴槽から上がって、外へと繋がる扉の方向へと歩いていく岬。夏怜と杏樹も浴槽から上がり、ひたひたと水の音を鳴らしつつ岬について行くのだった。
「ひェ〜〜、寒ッ!!!」
「お、思ったより寒い……」
扉を開けた先は、1部屋を挟んで、極寒の地であった。さっきまで40度のお湯が全身を包んでいたのだから、一気にその40度近く下がった空気が素肌に触れてしまえば、誰でも寒いと思ってしまう。
たとえとても寒くて今すぐ温泉に入りたいとしても、温泉内で走るのはとても危険だ。特に露天風呂なんかで転んでしまっては、岩に頭や体を打ち付けて、怪我をしてしまったりする危険性がある。3人は、できるだけ速い歩行速度で、岩に囲まれた秘境のような温泉へと向かった。
「……さ、寒いのか暑いのかよく分からなくなってきた」
なんだかんだで、浴槽に浸かることが出来た3人。露天風呂あるあるだろう。外は寒いけど、浴槽に入った途端、猛烈に暑くなる。そんな感覚。首から下は温かいお湯に包まれて、首から上は冷たい空気に触れているから起こる現象である。
だが、兎にも角にも……3人が共通して思っていることは、ただ1つ。それは、とても気持ちがいいということ。
「ね〜、見てよ杏樹! めっちゃ綺麗!」
他の客の姿も見えないし、夏怜は外の方へと指を指して、少し大きな声で杏樹にそう伝える。それを聞いた杏樹は、夏怜の方へと移動しつつ指が指された方を見てみる。
そこには、幾つも並んでいる木に、辺りが暗い夜ということすら関係なく目立つ白い雪が何層も積もっている、東京等の雪がそこまで降らないような他県では見ることの出来ないような森の光景が広がっていた。旅館が村の中心ではなく森に近い場所にあえて作られているのも、この四季によって彩られる綺麗な木々が露天風呂から見えるという理由からだろう。
「こんな綺麗なのに、世間的に見たら全然評価されてないンだ。もっと取材とかすれば良いノに」
杏樹は、周りに人が居ないのを確認した上で、心の内で思っていたことを吐露する。この旅館の温泉は、知る人ぞ知る、といった知名度。熱海や草津とまではいかずとも、もっと人気になってもいいくらいの絶景だ。秋の紅葉の景色なんて、冬のこの景色の2倍近くは綺麗に違いない。
そんな会話が聞こえてきた岬は、そのまま肩まで浸かってリラックスしつつも、ぼんやりと口を開いて言葉を呟き始める。
「……極端にこの仈湧村は、メディアによって紹介されることが少ない。地図上に存在こそしているが……ネットニュースすら1件も見当たらなかった」
「へぇ〜。それって何だか、誰にも知られたくない秘密を持っているみたいな村だね」
今夏怜が言った言葉。誰にも知られたくない秘密……。そこで出てくるのは、やはりこの村で噂されていると野坂が言っていた、八尺様のこと。八尺様が出るという噂を騙って、何か凶悪な犯罪が村ぐるみで進んでいるとか……? いやいや、そんな訳がない。だって、被害者は村民、しかも村の未来を担う子供なのだから。
結局分からなくなってしまって、岬は考えるのをやめて、また湯に浸かってリラックスすることにした。
あれから3人は、1時間近く温泉を満喫していた。ジェットバスに入ったり、夏怜が初めてのサウナを体験したり。互いの背中を流して、互いの髪をドライヤーで乾かして……。
裸の付き合いというのは、人と人の距離を縮める効果がある。3人のことを知らない人が彼女達を見たら、兄妹にすら見えてしまうだろう。岬はしっかり者の長女、杏樹は少しお調子者の次女、夏怜は幼く元気な末っ子……というように。
「……ふ〜っ、いい湯だッたネ」
「たまには温泉も良いな」
すっかり温泉を満喫し終えた3人は、そのまま部屋へと戻っていた。旅館らしく、浴衣の帯を結んだ姿で。
「あ、ボク飲み物買ってくから先に行ってて!」
「は〜イ」
「部屋の扉は開けとくから、帰ってきたら閉めるようにな」
「わかった!」
明日飲むための飲み物を買おうと、夏怜は2人とはぐれ、自動販売機が置いてあるフロアへと歩いていく。やはり客はとても少ないようで、せいぜい1組や2組居るというくらいだ。
人気が全然無い自販機の前で、夏怜は悩む。水かお茶か、はたまた別の飲み物か……。う〜んと唸りながら悩んでいると、そんな夏怜の後ろを通っていく人が居た。そして、通り過ぎてしばらくして……その人は、なんだか見覚えがあると思い、夏怜の方へと振り返って、顔を確認してはゆっくりと彼女へ近寄っていく。
「……ぁ、あの……」
「……ん、?」
夏怜は、自身に声をかけてきた者の方を見る。気弱そうだが、杏樹よりも背の高い、長い黒髪の人物。思わず見上げてしまうような身長の彼女を、夏怜はどこかで見た記憶がある。
────そうだ。彼女は、村長の家で最初に自分達を出迎えてきてくれた女性。野坂に叱られていた、鈴佳という人物だ。……多分。旅館の店員をしているのか、何時間か前に見た時の服装とは違って、鈴佳は着物を着ていた。
「…………今日、父の家さ来でた人だよね。……、ですよね」
父譲りの津軽弁が全くと言っていいほど抜けきっていない鈴佳は、夏怜に向かってそう話す。夏怜達がこの村以外の場所から来ているということを知っているからか、鈴佳は頑張って標準的な敬語で話そうとしていた。
「そうだけど……君は、出迎えに来てくれた人だったよね」
「はい、野坂鈴佳……って言います」
「ここで働いてるんだ。……それで、どうしたの?」
一応、今は働いている最中のはず。何か用がある時以外は、店員と客なのだから、話しかけてくるはずがない。夏怜は、目を合わせながら鈴佳に問いかけてみる。
「……ぇ、え〜っと……。…………よく分がんねけど、この村は危険だから、いち早くにでも逃げで欲しくて……」
それは、鈴佳から夏怜達に対する、忠告のような言葉だった。旅館の廊下に響かぬよう、鈴佳は小さな声で夏怜に伝える。この村が危険というのは、もちろん夏怜も知っていた。この村で起こっている未成年の連続誘拐事件を解決しに来たのが、彼女達だから。
この村の中でも、やはりその事件は危惧されているのだろうか。夏怜は、不安そうな顔で自身を見る鈴佳に対して、言葉を返す。
「……大丈夫。……これは村の人達に言いふらしたりしないで、秘密にしていて欲しいんだけど……。ボクらは、鈴佳ちゃんが思っているその危険を解決しに来たんだ」
鈴佳とは対照的な自信を持った顔で、夏怜は彼女にそう伝える。そんな顔を見ても、未だ鈴佳の不安な表情は消えぬまま。
「…………どんだけ強い人が来ても、この村の現状は絶対に変わんねえ。……絶対に、この村には関わらね方がいい」
何をそんなに恐れているのか。夏怜は全く分からなかった。杏樹の力があれば、事件は絶対に解決されるはず。彼女が杏樹の武力を知らないからそう言えるのだろうが……。夏怜は、鈴佳を安心させようと口を開こうとした。
「鈴佳ちゃん! 人手足りねはんで、倉庫のとろげ手伝って欲すいんだげど」
「ぁ、は〜い……! 今行ぎますはんで待ってけ……!」
夏怜が口を開く前に、丁度よく鈴佳の後ろに現れた店員が、彼女に向かってそう告げる。鈴佳は一度夏怜に背中を向けて、その店員に愛想良く返事をした。そして、再度夏怜の方を向いて、彼女に話しかける。
「私は見だ事ねえけど、出るらしいから。……八尺様が」
夏怜の耳元で、小さな声でそう伝えて……。鈴佳は、返答もろくに聞かぬまま去っていってしまった。
怖いのが苦手な夏怜は、その鈴佳の言葉を聞いて、思わず背筋を凍らせてしまう。こんな全然人が居ない旅館で、彼女ただ1人。一気にこの状況が怖くなってきてしまい、夏怜は飲み物も買わぬまま部屋へとそそくさ戻っていってしまった。