伝説の怪盗。絶対に侮ったりしてはいけない相手だ。殺してはいけないという制限がある以上、
「怪盗の手札は無限大だけど大丈夫?」
マントを靡かせて、真っ直ぐに杏樹の方へと進んでくる怪盗ヴァイパー。鋭く光るその眼光は、怪盗に相応しいような、赤く燃える炎のようだった。これまで対峙してきたような、櫻葉やレナとは違う。悪の輝きではない。世界中にある宝を全て我が物にするという馬鹿げた野望を絶対に叶えてやろうと輝く、まるで赤子のような純粋無垢な輝きだ。
刃物類を持っているなら攻撃ができる範囲内。その範囲に入る1歩手前で、怪盗ヴァイパーは杏樹に何かを投げつける。それは、トランプのような薄っぺらいカードだった。勿論、種も仕掛けもあるに決まってる。
「ッん……」
杏樹がそのカードを避けようと動いた、刹那の時。杏樹の視界が、真っ白に染まった。それと同時に、まるで鼓膜が破れたかのような音が杏樹の脳内へと鳴り響く。初めての体験だった。
「朽内杏樹……否、正義執行人サン。聞こえないのは知ってるけど、聞いておくよ。弱そうに見せる、ってのも面白いでしょ?」
一時的に聴覚が制限されている杏樹に対して、怪盗ヴァイパーはそう語りかける。杏樹のことを何も知らないと騙っていた彼女は、本当は杏樹の強さを知っていた。警視庁内部の会話を盗聴していた時、正義執行人という存在を知る。そして、「露命」を盗む時、その刃が自身へと向いてくる、ということも。杏樹に本来の強さを出させないためには、短期決戦が1番の勝つ方法。怪盗は狡猾であった。
拳銃のようなものを懐から取り出して……怪盗は杏樹の首筋に向かって標準を合わせて、無情に引き金を引く。視覚と聴覚という五感の中でも特に重要な2つを失った杏樹が、回避などできるわけがない。怪盗が放った攻撃は、完全に命中したものだと思われた。
「…………ァ〜、……閃光か、考えたネ」
またもや、回避。放たれたソレを、杏樹はまるで流水のように綺麗に回避する。見えず聞こえずの杏樹が、いったいどうやって────!? 常時冷静でいなければいけない怪盗に、一瞬の動揺という隙が生まれた。
まだろくに目が見えてない杏樹。だが、完璧に見えていないという訳じゃない。ぼやけたその輪郭を頼りに、杏樹は怪盗ヴァイパーへと急接近をして、彼女の服の襟をなんとか掴む。距離を取ろうとするが、掴まれたあとじゃもう遅い。
「んぐッ……」
掴んだ勢いをそのまま利用するように、杏樹は怪盗ヴァイパーの
あっという間の決着。短期決戦を望んだ怪盗が、その短期で終わらせたいという気持ちを利用されて、戦いを強制終了させられる。策士策に溺れる、という言葉ほど、怪盗ヴァイパーが策に溺れた訳ではない。たった一瞬の隙を突いた杏樹が凄いだけ。杏樹が強いだけで起きてしまった、完全制圧劇なのだ。
「頭が良いダケの奴は、厄介そうに見えテ簡単。頭が良すぎる故に思考が分かッちゃうからネ」
今杏樹が放った独り言。単に、杏樹に武力があったから勝てた、いわゆる「ゴリ押し」という勝ち方とは全く違う。閃光弾のような使い方をする投擲物は本当に予想外だったが、そこからの動き方は、杏樹にとって多少予測ができるものだった。
なるべく早めに終わらせたいという考えは、怪盗や泥棒が対人してしまった時、最も早く感じる考え方。誰かが来る前に、早く目的の宝を盗んでおきたいから。閃光で怯んでいる隙に、必ず動けないようにしてくるはずだ。失神か、もしくは殺人か。泥棒と違い、怪盗は人を殺すことをあからさまに避ける傾向にある。宝を盗むまでの工程で殺人という「罪」が生まれてしまっては、人々を楽しませるショーでなくなってしまうから。きっと弾丸ではなく、スタンガンや麻酔針などの行動を一時的に制限する武器が飛んでくる。
ここまで長くつらつらと並べたことを、杏樹は閃光によって視覚と聴覚が制限された時から瞬時に考えついた。頭が良いだけでは勝てないと杏樹が言った理由は、そこにある。杏樹は、戦いにおいては比類なき天才。そんな天才が、瞬時に思考するという能力を持っていない訳がない。怪盗と同じ、もしくはそれ以上の脳を持っている。その頭脳を持ってるからこそ、頭じゃ解決できない能力を持ってる櫻葉やレナのようなタイプの方がやりにくく、逆に頭脳をメインに使う怪盗ヴァイパーは、実にやりやすい相手だった、という訳だ。
「……さァ〜て。とりあえず縛って……」
膝蹴りした後失神した怪盗ヴァイパーを抱きかかえていた杏樹は、ゆっくりと丁重に怪盗ヴァイパーをホールの床へと降ろす。ハッタリかもしれないから、集中こそしていたが……綺麗な眠っている顔を見て、杏樹はなんとなく察した。ハッタリじゃなく、確実に失神している、と。
察すると同時に、杏樹の中の悪魔が囁く。「今ならヤり放題だぞ」と。彼女の中の悪魔が囁くとは、どういうことか。彼女の中に天使は居ない。つまり……悪魔が囁けば、必然的にそれが行動となる。ズボンのベルトで怪盗ヴァイパーの手を縛れば、杏樹はにやけ顔を浮かべながら、彼女の衣服へと手を伸ばす。
「……ふひ、サラシ巻いてるみたいだケド……案外大きいじゃ〜ン」
女を狙う目も、どうやら一流のようだ。性別を偽造するためか、なんとかサラシを巻いて抑えていた胸が、スーツを脱がされたことによって暴かれる。どちらもいけるクチだが、どちらかといえば巨乳派な杏樹は、心の中で沸き立っていた。
明らかに犯罪臭が匂い立ってきたホール。そんなホールと廊下を遮断するシャッターが、警察の手によって徐々に開かれていることにも気づかずに。
「さァ〜て……下はどんなノを履いてるのかナ」
好き勝手に怪盗ヴァイパーのベルトを弄って、ズボンを脱がそうとする杏樹。残り1秒と差し掛かった所、遂にホールへと警官が到着した。
「大丈夫かっ!!!」
一番乗りでホールへと到着した遊馬と岬が、2人同時に大きく声をあげる。多少遠くからでも、寝転がる無数の警官の姿が見えたからだ。
「あっはい、大丈夫デス〜」
そっと怪盗ヴァイパーから手を離して、杏樹は明らかにテンションを下げながら2人にそう告げる。目の前に広がるシュールな状況に、遊馬も岬も目が点になってしまっていた。
警視庁から発表された、怪盗ヴァイパーが遂に捕まった、という情報。その情報は、今年数々の難事件を解決している警視庁が1年を締めくくるのに相応しい情報。聖夜の怪盗確保劇、なんて名付けるマスコミすら現れた。世間は、いい意味でも悪い意味でも大騒ぎであった。
10年前と怪盗ヴァイパーの中身が違うという説や、捕まえた怪盗の見た目や情報が一切出てこないことから提唱された警視庁のヤラセ説、他にも色々なことが噂された。きっと、説を立てた人たちは皆、あの頃怪盗ヴァイパーに魅了され、心を奪われた人たちなのだろう。
「……はァ〜、……年々寒くなッてきてナイ……?」
12月30日。大晦日の1日手前で杏樹が呼び出されたのは、東京にある警察署。いつもは来ないような場所である。ポケットに手を突っ込んで、厳しい寒さへと文句を言いながら担当の警察官についていく。
ある扉の前につくと、案内していた警察官が立ち止まる。そして、杏樹の方へと振り向いては口を開いた。
「……こちらの部屋になります。時間制限は特にございませんので、ごゆっくりと……」
「はいはイ、どうも〜」
言葉をかけ終えると、警察官はゆっくりと部屋の扉を開ける。その白い部屋の中には、対面するように置かれた椅子2つと机……そして、部屋を真っ二つに分かつようなガラス窓があった。
そして、何よりも目立つのは、向こう側の椅子に座っている者。あの時着ていた目立つ服装とは一転して、雑な部屋着のような服装を着ていたソイツ。マスカレードマスクを付けていない顔は全く見たことないが、雰囲気からして間違いない。怪盗ヴァイパーだ。
「……やぁやァ、あの日ぶりだネ。怪盗ヴァイパー……じゃなくて、
白色のプラスチックで出来た椅子に座りながら、杏樹は怪盗に向かってそう告げる。怪盗の名は、丹波夏怜。捕まえてようやく分かった名前だ。
「……気安く名前で呼ぶな〜。」
「まあまあ、そうお堅くならないで♡」
机に肘をつき、その手のひらに顔を乗せながら杏樹は夏怜にそう喋りかける。先日負けた相手だからか、誰にも公開していない名前で呼ばれたからか……夏怜は腕を組みながら不満気な顔を浮かべた。
「言っとくけど、君に何を言われようとボクは絶対に何も言わないよ。完全黙秘ってやつ」
「大丈夫、あたしは別に警察の代わりに取り調べをしに来たッてワケじゃなイ。……それよりも、も〜ッと大事なコト」
杏樹は、夏怜に対して微笑みながら人差し指を自身の口へと宛てがう。「秘密」、なんて言わんばかりのポーズだ。
「夏怜ちゃンさァ、あたしのコト詳しく知っちゃってるンだって? あの時、意識だけは少しあッたけど倒れちゃった人が居たみたいでサ」
催眠ガスによって倒れてしまった警察官の中に、誰にも聞かれてないと思って放った夏怜の独り言を聞いた者が居た。事件から1日経ったクリスマス、遊馬の元へとそのタレコミが渡ったらしい。
「……それで?」
杏樹の存在……正義執行人の存在。国家機密であり、一般人だろうと犯罪者だろうと、その存在は警視庁やそれに関係する人間以外にバラしてはいけない。だが、夏怜は何故かその存在を知ってしまっている。これは非常にまずいことだ。もし彼女の口から一般人に正義執行人の存在が知れ渡ってしまえば、この国の治安を守る警察という職業が終わりを迎えるかもしれない。
そこで、夏怜には口止め料としてある提案をすることにした。杏樹によって考えられたものである。
「夏怜ちゃンはどのみち逮捕だろうネ。怪盗としてじゃなくとも、建造物侵入罪とか軽犯罪法とか色々に引っかかッて。逮捕されたら時間の問題……いずれキミが住んでいる所もバレちゃうカモ」
「……何が言いたいのか、全っ然分からないんだけど!」
遠回しな言い回しをする杏樹に、夏怜は頬を膨らませながら「早く伝えろ!」なんて面接室の壁を蹴る。
「あたしの仲間になッてくれたら、ぜ〜ンぶ免除してあげる。宝のありかとか境遇とか、細かい事も聞かないシ。……ッて、警視庁からの言い伝え。見習いの正義執行人、ってとこかな」
人差し指の先をガラス窓にぴとりとくっつけて、杏樹は夏怜にそう伝えた。夏怜は、自分の耳を疑った。これまで自分が盗んできた物は、ざっと数十億はいくであろう宝ばかり。それを返せと言うと思ったら、まさか真逆のこと。杏樹と同じことをするだけで、これまでの自分の罪が免除になる。……やはりそんな上手い話ある訳がないと、夏怜は眉間に皺を寄せながら杏樹に問いかける。
「……う、ウソじゃないだろうな」
「勿論。あたしの存在をバラされちゃ困る。それなりのVIP対応でオモテナシしなきゃネ。……この好意を仇で返すンなら、死ぬコトになっちゃうしサ」
正義執行人になれば、宝は返上せずに、無事に生還することが出来る。この提案を拒否すれば、宝の場所を拷問で無理やり吐かされたりして、挙句の果てに処刑。狡猾な夏怜は、どちらを選ぶ方が賢いか理解していた。それに加えて────、彼女の個人的な感情も、そうしたがっていた。
「……怪盗はいつだって嘘つきだから、今ボクが了承したとしても裏切っちゃうかもしれないよ」
「もしそうなッたら〜……あたしが体で
夏怜の背筋に、ゾワゾワっと寒気が走る。気持ち悪い、というより……体がその感覚を覚えてしまっている。失神した際に少しばかり杏樹に弄られてしまった体が。この感覚を覚えている限り、夏怜はちっぽけな好奇心等で簡単に裏切るなんてことはしないだろう。
「…………わかった、その提案に乗る。契約書とかは?」
「今度警視庁に直接呼び出されるとかじゃナイ? 今はあたしも持ってないよ」
「じゃあじゃあ、……ボクはいつ帰れる……?」
若干目を泳がせながら、夏怜は杏樹に質問をする。そんな様子を見て、杏樹はなんとなく勘づいた。明日は大晦日。大切な人が居るならば、なるべくその人と過ごしたい、1年の終わりという特別な日だ。きっと、夏怜には大切な人が居る。
まだまだ子供だナァ、なんて思いながら杏樹はガラス窓へと顔を近づける。聞き耳を立てるようにしてよ、なんて夏怜に対する催促も忘れずに。
「……あたしがコネ使ッて出してあげよッか」
「……! 本当か!?」
杏樹からこっそり伝えられた言葉を聞いて、パッと嬉しそうな顔を浮かべる夏怜。相当嬉しかったのだろう、怪盗ヴァイパーだとは思えないほどに可愛らしい顔だ。
「ホントホント。明日帰るンじゃ少し遅いシ……お金はあげるから、タクシーでもバスでも好きな方法で帰りなヨ」
「……君……じゃなくて。朽内さんは、なんでボクにそんな優しく接してくれるんだ……?」
ふと疑問に思って、夏怜は杏樹に問いかけた。そんな困った顔の夏怜に、飛びっきり優しく見える顔を浮かべて杏樹は答える。
「それが『正義』ってヤツさ。……人に優しくしたら、こッちも嬉しくなっちゃうしネ」
杏樹が今放った言葉は、言うまでもなく嘘である。正義なんて杏樹はクソほど興味無いし、人に優しくしたら〜……っていうのも後付けで加えた設定。なぜ嘘をつくのか? そりゃあ勿論、信用してもらった方が後々抱きやすくなるから。
下衆の極みにも程があるそんな杏樹の考えを、夏怜は馬鹿正直に信じる。怪盗ヴァイパーとしての彼女は、頭が良くて逆に扱いやすいという印象だったが……普段の彼女も、いい感じに馬鹿で扱いやすそうだ。馬鹿と天才は紙一重、なんて言うし。
「……それで、奴を出してやったと」
「そうそう。やっとこさ出来た同業者なンだから、優しくしておかないとネ。あたし1人じゃ寂しいシ……」
夏怜を見送った後、杏樹は警察署内で待っていた岬の元へと向かう。面接室で話した内容を軽く話して、杏樹は岬が座っているソファへと腰掛けた。
「……正義執行人という存在を隠し通す為とはいえ、流石に無罪放免というのは……」
「う〜ン、でもさ。夏怜ちゃン自身が盗んだノは、多分今年に入ッての2つだけだよ。今年で22、ってことは……10年前はまだ12歳の小学生6年生。そンな子供が、10年前の怪盗ヴァイパー本人だと思う?」
「……流石に無理があるな。だが……なら、本物の怪盗ヴァイパーは? 彼女はただの模倣犯だったってことか?」
「さァね〜。あたし達からの提案を了承された以上、それはもう夏怜ちゃンにしか分からなイ」
そう告げると共に、杏樹は岬の飲みかけの珈琲をごくりと飲み干した。ティースプーン2杯分の砂糖を入れた珈琲は、いつもよりも甘ったるい風味がした。
「師匠〜、帰ってきました!」
「お〜、おかえり。たまには脱獄なんていうのも楽しいだろ」
「それなんですがね〜、…………」