「予告状。クリスマス・イヴ、辺りが闇夜に包まれた時、国立の美術館にて、『
12月24日の昼過ぎのこと。1人きりのリビングで、杏樹は警視庁から送られてきた資料の1つを小さい声で読み上げる。怪盗ヴァイパーから警視庁に直接送られてきた、犯行の予告状だ。
今日の夜、怪盗ヴァイパーによって、
場所は、バイクで走るとしてめるの家から30分もかからない港区の美術館。前もって事件まで美術館で待機しておくのが普通だが、冬ということもあり、最悪事件の時に来てくれたらいいということで杏樹にそれは任せられていた。
「……やッぱり手法は本人そのものだナァ。仮にも今年既にしてるンだから、模倣犯とかでもないだろうシ」
机に肘をつきながら独り言を呟いていると、玄関から音が聞こえる。それは、出かけ先から帰ってきためるだった。すっかり寒くなってきたからか、ニット帽に手袋、マフラーで完全な寒さ対策をしている彼女の姿を見て、杏樹は思わずにやけてしまう。
「おかえりめるちゃン、道混んでタ〜?」
「ただいま〜。結構混んでたよ……クリスマスイブだからね」
長方形の取っ手がついた箱を机に置いて、めるは杏樹にそう伝えながらストーブの方へと向かう。帰ってきて早々暖かい場所へと向かうというのも、また冬の醍醐味。冷えてしまって赤くなった顔や耳、指先がいつもの色に戻るまでは、できるだけ暖かくしていたい。
「そンで、予約したのは結局何にしたノ?」
「あ〜、そうそう! 言うの忘れてた……。今回予約したのは、これ!」
そろそろ暖まってきたかな、なんていい頃合で、杏樹はめるへと声をかける。その問いかけた内容というのは、めるが置いた箱の中身についてのこと。それについて聞かれれば、めるはルンルン気分で立ち上がって、急いで机へと駆け寄る。
めるが買ってきたこの箱は、いわゆるケーキ箱。その箱を丁寧に開いていけば、見えてくるのは可愛い白色のホールケーキ。生クリームの白色に、真っ赤な苺がよく映える。クリスマス限定なのだろう、中央には小さなサンタクロースがちょこんと乗っていた。
「おぉ〜……めるちゃンが1番好きなショートケーキ」
「チョコとかもあったし迷ったけど……やっぱり1番好きなのが1番いいかなって。今食べる?」
「うン、今日は暗くなってから家出るシ……食べちゃおっカナ」
「ん、お皿持ってくるね」
今日はなんとなく上機嫌のめる。単純に、大好物のショートケーキが目の前にあるということも影響してるのだろうが……。1番の理由はきっと、1年に2日間しかないこのクリスマスを、杏樹と過ごせるからだろう。
去年のクリスマスは、24日も25日も全く一緒には居られなかった。杏樹が両日警視庁に呼び出されてしまったからだ。だが、今年のクリスマスは違う。一緒に居られないのは、24日の夜のみ。その他の時間は、今のところだが一緒に居られる予定だ。それもあってめるは上機嫌なのだ。
「私も食べちゃおっ」
「いいネ、食べちゃえ」
2人、机を囲んで、クリスマスケーキを食す。めるは行儀よくフォークを刺して、杏樹は肘をついてケーキを頬張って。明らかに対照的な食べ方だが、誰もそれに口を出す者はいない。2人きりのクリスマスイブを過ごしてから────、杏樹は向かう。混沌となる美術館へ。
「ハ〜イ通して通して……」
18時、日が沈みきった頃。すっかり辺りは暗くなってしまって、星の目立つ夜空が姿を現していた。めるに巻いてもらったマフラーを身につけながら、杏樹は人混みの中を進んでいく。
立ち入り禁止のテープが張られているとはいえ、凄い人混みだ。皆が怪盗ヴァイパーの犯行を一目見ようと、美術館の周りへと集まってきている。美術館へ怪盗ヴァイパーというもはや芸術に近しい存在を見に来る、観覧客である。
「……こンばんわ、遊馬さン」
「おう。約束通り来たか」
人混みを抜け、規制のテープを抜け、美術館の裏口の方へと向かっていく。近づくにつれて、警察の量がどんどん多くなっている。いったい、何人の警察が駆り出されているのだろうか? 怪盗ヴァイパーが晩年に起こした10年前の事件では、私服警官などを含め500人近くの警察が投入されたと聞く。今日捕まえる覚悟があるのなら、やはりそれくらい居るのだろうか?
とりあえず状況等を整理しておきたい杏樹は、目に入った警視長の遊馬へと声をかける。いつもなら開口一番に嫌味を言ってきたりする遊馬だが、さすがに前の会議での杏樹の発言が効いたからか、特にそういうことは言ってこなかった。
「清水なら遅れてくるそうだ、本部で働いてる。1時間以内には来るだろ」
「ふ〜ン。あたしはどこに行けばいい?」
「ヤツが狙ってる『露命』を保護してるホールに向かえ。詳細はそこに居る奴らに聞いときゃいい」
「はいは〜イ、了解」
最低限の会話だけ交わして、杏樹は遊馬から離れていく。いつもこうならいいのに〜、なんて心の内で思いながら。
裏口へとつくと、杏樹は警備員に案内してもらいながら美術館の中へと入っていく。美術館という建物の独特の雰囲気に、杏樹はなんとなく美しさを覚える。今は警察等が見張っていて少し騒がしいが、普段は違う。会話の声や足音は勿論、唾を飲む音すらはばかられる程に静かな空間。展示されている絵や芸術品を見るだけの空間。その空間が、杏樹はなんとなく好きだった。
「こちらがホールになります。くれぐれもお気をつけて……」
杏樹をホールへと案内し終えると、警備員は元の位置へと戻っていく。ホールは、絵を飾るような他の部屋とは違うような雰囲気を醸し出していた。
壮大なコンサートホールにあるような、月光だけを美術館へと通していく天窓。汚してはいけないと言わんばかりに白色で固められた、スペインの街並みを彷彿とさせるような部屋の作り。そして────、部屋の中央に1つ隔離された、ある絵画。「露命」だ。
「う〜ン、難しいなァ。……今回は、あくまで標的の殺害が目的じゃなイ。これまで盗まれたモノを返してもらう為に、身柄を拘束するのが目的ときた……」
怪盗を相手にするなんてこと、これまで数多の事件を解決してきた杏樹でも初めての経験。いったいいつ、どんな手口で怪盗ヴァイパーが現れるのか。過去起きた時の資料を見たとはいえ、杏樹ですらそれは全く分からない。事件の概要に対して文句を言ったりしない杏樹だが、今回ばかりは思わずそんな不満を垂れてしまっていた。
「……アレ? なンだ、岬ちゃン居るじゃん」
ホール全体を見回していた杏樹は、奥の方に岬らしき人物が居ることに気づく。何もしてこないと思ったら、遊馬はやはり小さなことだが嫌がらせをしてきていたのだ。よく懲りずにそんなこと出来るなァ、なんて思いつつ、杏樹は岬の方へと歩いていく。
「居ないもンだと思ってたよ」
部下と話を終えた岬の真横に立って、杏樹は岬に話しかける。いつ怪盗ヴァイパーが来るかは分からないから、警戒はしているまま。床や壁、天井に怪しい箇所はないか。他の警察官に怪しい動きをしている者は居ないか。
「居ない……? 私はかなり前からここに居たが」
「遊馬さンに嘘つかれたノ。ホント子供みたいなコトするよネ、今は事件に集中しろッてノ」
「その通りだな」
軽い雑談を交えながら、杏樹は事件の概要について聞いていく。怪盗ヴァイパー用に作られた大規模な防犯ネットを使うとか、それこそ私服警官の投入とか。些細なことから大幅なことまで、出来るだけの対策を警視庁は用意していた。
「……お前も居るんだから、出来ればやはり今日決めてしまいたいな。奴との決着を」
「そ〜だろうネ。あたしからしてみりゃ、怪盗なんか相手にしたコトないから全ッ然対策とか出来てないケド」
そろそろ、杏樹がここに来てから1時間が経つ。19時……美術館前に居る観客達のボルテージは、最高潮に達しているだろう。
岬は何やら部下とまた話をしているし、詳しくこのホール内に怪しい箇所がないか探してみるか……なんて杏樹が動き出したその時。ピンポンパンポン、と美術館全域に音が鳴り響く。19時といえば、美術館が営業終了をする時間帯。時間が時間だし、切り忘れただけか……。館内にいる警察は皆そう思っていた。
「本日もご来館、誠にありがとうございます。お客様にご案内申し上げます。……」
もう営業は終了する、ということを客に知らせる館内放送。やはり設定を切り忘れてしまっていたようで、まだ警戒を緩めていなかった警官達もその言葉を聞いて安心していた。
またのお越しをお待ちしております、という締めの言葉が流れようとした、その瞬間。ザザッ、と、いきなりテレビでよく聞く砂嵐やノイズのような音が流れ始める。
「夜7時、辺りはすっかり闇夜に包まれて、ショーの準備もそれに合わせてすっかり整いました。さて、予告した通り……名画『露命』を頂きに参ります。怪盗ヴァイパー」
それは、いきなりの事だった。館内放送が切り替わったかと思えば、加工されている音声が美術館の内部は勿論、外にまで響き渡っていく。
来る。怪盗が。皆がそれを予感した、その瞬間。ホールに居た100人近くの警官が、次々とその場に倒れ始めた。杏樹もその光景を見て、ようやく気づく。自分の体が痺れ始めているような感覚に。
ホールに大勢の警察が駆け寄ってくる。ホールにて異常が発生していることが、無線で共有されたため。しかし、その警察達が入ってくることは無かった。館内放送と同時に、ホールから他の部屋に行く通路のシャッターが閉じてしまっていたためだ。
「…………こりゃ、ガスか何かかナ」
マフラーをマスク代わりにして鼻と口を覆いながら、杏樹は部屋の中心でガラスに保護されている絵画の方へと歩いていく。ものを盗む時は、ほとんどの場合近づかなければならない。この絵画の近くに居れば、いずれ奴の方から近づいてくるだろう。そう、怪盗ヴァイパーの方から。
「……参ったなぁ、催眠ガスが効かないとは思わなかった」
杏樹の背後から、そんな声が聞こえてくる。聞いたことのない声だ。先に絵画が入っている保護ケースの方に行ってから、杏樹は後ろへと振り向いた。
背後には、ただ1人、岬が立っていた。さっき聞いた声は、岬とは全くと言っていいほど違った。考えられるのは1つだけ。怪盗ヴァイパーが、岬に変装していたということ。杏樹が気づかないほどの変装だ、高レベルにも程がある。
「キミが例の怪盗ヴァイパー?」
岬の姿をした者に対して、杏樹は問いかける。背中の後ろで手を閉じたり開いたり、痺れの具合を確かめつつ。
「ふふ、いかにも。ボクが……怪盗ヴァイパーさ!」
どこからか出したマントで姿を隠すと、さっきまでの岬の姿は消え去った。そこに現れたのは、怪盗ヴァイパーだった。
紫がかったハット。黒のスーツに黒いマント。顔を隠すためのマスカレードマスク。その格好はいかにも怪盗で、ある程度杏樹が想像していた通りの姿をしていたが……1つ、ツッコミたいことが杏樹にはあった。
「……知らなかったンだけどサ、怪盗ヴァイパーって女の子だッたノ? 信じられないナ……複数人居るとか?」
背丈は長身の杏樹より少し低いくらいで誤魔化しが効くが、声やマスク越しの顔から推測するに、怪盗ヴァイパーはどうやら女性らしい。20代前半……もしくは後半? どちらにしても、10年前にバリバリ活躍していた年齢層の人間とは思えない。杏樹は自分の目を疑った。
「ふふん、さぁね? 少なくとも、今年に入ってからの2つの事件はボクによるものさ」
「ほォ〜……。キミみたいな可愛いコでも盗めたりできるンだ。警視庁は案外ザルだナァ」
本音五割、挑発五割。杏樹は不敵な笑みを浮かべながら怪盗ヴァイパーに向かってそう告げる。怪盗というのは、とても難しい。頭脳明晰なのは勿論、その頭で考えた事を実行する身体能力や道具を作る力が必要。その上、何が起きても常に冷静で居なければならない。
性別で差別するような意図は全くない、とはいえ。彼女からは全くそんな気配がしなかったから、杏樹はより困惑していた。
「……それは心外だなぁ。怪盗ヴァイパーを見くびってもらっちゃ困るよ」
ニヤリと笑いながら、杏樹の後方へと指を指す怪盗ヴァイパー。背後が気になるが、きっとこれは杏樹もよくやるようなブラフだろう。絵画を守るガラスのケースに背中をくっ付けているが、特に動いたりアクションが起こったりはしていない。
やはり、この程度じゃ引っかからないか。そんな顔を浮かべながら、怪盗ヴァイパーは杏樹に指した人差し指を引っ込める。だが、腕は下げないまま。普通ならば、人差し指を引っ込めると当時に腕も下げるはず。杏樹は、それを少し不審に思う。そして、その予感は、見事に的中した。
「……お〜ッと、危ない危なイ」
黒い手袋をしているその手の甲。少し膨らんでいるようなそこから、音もなく飛んできた針のような物を、杏樹は見逃さなかった。最小限の動きで、杏樹はその針を回避する。
「……麻酔針が避けられるとは。もはや私服警官の域じゃないように見えるけど」
「あたしは警官じゃないからネ〜。言えることはただ1つ、あたしは警官より少しは強いヨ」
「少しどころじゃなさそうだ」
ようやく腕を下ろして、怪盗ヴァイパーは腰に両手をつきながら杏樹へと目線を合わせる。
今から、正義執行人と伝説の怪盗の戦いが始まる。制限は、たった1つだけ。相手を殺してはいけない、という制限。とても難しい戦いを、杏樹はどう乗り越えるのか────。