コン、コン。岬がマンションの近くに止めた黒色の高級そうな車の窓ガラスが、何者かによって軽く叩かれる。見てみれば、それはレナとの戦いを終えた後で、いつになく疲れている様子の杏樹だった。
岬は急いで車の鍵を開けて、杏樹を中へと迎え入れる。レナと戦ってる間の会話は、全てインカムで拾われていた。つまり、杏樹の体のどこかがレナによって刺されたということや、レナが屋上から飛び降りたということも、杏樹の独り言によって全て岬に情報が渡っていたのである。勿論、心配しない訳にはいかない。刺された場所によっては、命が関わってきたりするのだから。
「大丈夫か? 刺されたとかなんとか……」
杏樹が席に座るやいなや、岬はすぐに杏樹へそう質問して詰め寄る。日本の治安は、まだまだ悪い。たった1人の正義執行人がこんな所で居なくなってしまっては、とても困るのだ。
「あ〜、ソレは大丈夫。刺されたトコは太腿の裏なンだケド、止血済だから」
「止血……? でもどうやって」
岬が杏樹の太腿を見ていると、確かに包帯が巻かれているようだった。
「塔屋の中にレナちゃンの荷物あッたでしょ? 漁ってたら、救急セットが見つかッたから。使わせてもらったにょ〜ン」
「……爆弾でもあったらどうするんだ……」
「その時はその時だよ。マンションの住民とかは死ぬかもしれないけどネ」
助手席をリクライニングして後方へと倒していくと、杏樹はその席へ仰向けに寝っ転がった。人間は、ゾーン状態に入ったあと、強烈な疲労感が襲ってくるということがある。いつもは事件解決後でも
「……私は遺体の確認や処理の以来をしてくるが。救急車も一応呼んでおく、来た時には素直に従うように」
「いらないのに〜……。ま、了解」
まだまだやらねばいけないことがある。岬は運転席から立ち上がり、杏樹へとそう忠告しながら外へと出ていった。助手席で暫く
岬は、警視庁に居る部下へと電話をしつつ、マンションの方へと早歩きで進んでいく。電話の内容は、さっき杏樹に言っておいた通りのこと。遺体の処理をする車を手配したり、車の近くに救急車がつくように言っておいたり。そうしていると、岬はあっという間にマンションの近くへとついた。どこら辺にレナの遺体が転がっているんだ……なんて思いながら、岬は電話を切る。
「…………?」
岬が異常に気づき始めたのは、マンションの周囲を丸ごと2周した後のことだった。注意深く見て回ったつもりが、レナの遺体はおろか、血痕1つすら見つからない。あの時の杏樹の会話や、杏樹の様子から察するに……レナは確実に死んだはず。
レナの死で、やっと終わりを迎えると思った、連続通り魔殺人事件の犯行。その犯行に終止符を打つことが出来なかった岬の顔は、────。
レナが行方不明になって、約1ヶ月半の時が経った。あの日以来、「RENA」による事件は、全くと言っていいほど行われていない。どこかで生きているのか、それともどこかでそのまま死んだのか。神のみぞ知るところであろう。
では、事件解決という面ではどうなったか。確かにレナの犯行がなくなったとは言えど、レナが生死不明な以上、完全な解決とは言えない。事件の進行が止まった以上、レナを探しようがないと判断し、事件の捜査は打ち切りになって、レナは指名手配犯になったのであった。世間を騒がせた「RENA」による事件は、これにて終焉を迎えた。しかし、事件の概要が不明瞭な所などから、警察や上級国民による陰謀だということを唱える者もいる。この連続通り魔殺人事件は、世間から様々な反応を受けつつも、ひとまずは終わりを迎えたのである。
「…………寒ッ」
あれから、すっかり季節が変わってしまった。世間中の人々が皆防寒具やマフラー、手袋をつけ始める季節になった。クリスマスシーズンだからか、街中がイルミネーションによって飾り付けられていく、そんな中。杏樹は、久しぶりに単身で警視庁へと向かっていた。
この1ヶ月半の間、杏樹には全く正義執行人としての仕事が来なかった。杏樹がレナを取り逃してしまったせいで、警視庁内部が真っ二つに別れてしまったからだ。警視正である遊馬等の「正義執行人は要らない」派閥と、警視である岬等の「正義執行人は必要である」派閥に別れた警視庁は、ひとまずその問題が解決するまで杏樹を事件に起用することを抑制していた。
「え〜と、第1会議室って言ッてたっけ」
杏樹が警視庁へと久々に呼ばれたのは、そのことについて会議を行うため。この場で最終決定をする訳ではないが、それでも、杏樹のこれからが決まる重要な会議ということには変わりない。決定したことだけを伝えて変な気でも起こされれば、警視庁からしたらたまったものじゃない。
早速警視庁に入って、会議が行われる予定の第1会議室へと向かい、扉を開ける。するとそこには、杏樹が見知った遊馬や岬などの面々や、いかにも重役そうな初老の男性など、様々な人間が座っていた。
「……いやァみなさンお揃いで」
「2分遅刻だ、社会人は5分前行動が当たり前だろ」
この中で1番機嫌が悪そうな顔を浮かべるのは、ヘラヘラとした態度で入ってきた杏樹に返事をする遊馬だった。袖を捲り、太い腕に巻き付けた腕時計を直視しながら遊馬は杏樹に注意をする。
この場で杏樹にハッキリとものを言えるのは、遊馬と岬の2人くらいだろう。その他の者は、今日が初めましてという方も少なくない。遊馬の乱暴な言葉遣いに、肝を冷やした者も居た。今この場に居る全員が、杏樹によって殺害されてもおかしくはないから。
「……悪いネ、あたしは社会というモノを経験したコトなくてサ」
薄ら笑いを浮かべて、遊馬に対して嫌味を返しつつ、杏樹は1つだけ空いている椅子へと座る。これくらいでいちいちイラついて反感を買っていたら、正義執行どころでの話ではない。
ポケットに手を突っ込み、足を組んで偉そうに座る杏樹。杏樹が座ったのを確認すれば、会議の進行役であろう男が立ち上がり、口を開いた。
「それでは、少々時間が遅れてしまいましたが……会議を始めたいと思います。この会議は、正義執行人が必要であるか不要であるか…………」
約2時間に渡る会議。この会議では、各派閥から色々な意見が出た。レナを取り逃がしたせいで、またいつか生き延びたレナが事件を起こすかもしれないから、その責任を取って杏樹を正義執行人から解雇するという意見。過去我々が解決出来ないような事件を解決してくれた恩を忘れたのか、という意見。どの意見も真っ当であり、間違った意見は何一つなかった。
自分についての会議を無言で聞いていた杏樹は、いったい何を思っているのか。それは、最終的な意見がまとまらず、会議が終わりに差し掛かろうとしている時に本人から聞くことが出来た。
「……そろそろお時間ですが……、今までずっと黙っておられた朽内さんからは、何か意見などございませんでしたか?」
進行役の男が、時間を確認しながら杏樹に向かって恐る恐るそう問いかける。その質問を受けると、杏樹は組んでいた足を直し、ポケットは手に突っ込んだままゆっくりと口を開いた。
「…………ン〜。あたしの処遇は本当にどうでもいいンだけどサ。勿論、取り逃したあたしが言うことじゃナイのは充分承知だヨ? でも、少ォ〜し虫が良すぎなイ?」
杏樹が放った言葉によって作られた重苦しい雰囲気に、会議室全体が氷点下に凍りつく。それは、遊馬や岬などの杏樹を知っている人物も含めて。
「今まであたしが解決してきた事件のコト、もう忘れちゃったのかニャ〜? 1回ミスったくらいで、こ〜ンな大きな会議開いちゃってサ。警視庁は、あたしがこの仕事に就く前に、いくつの重大な事件の解決を逃したンだろうネ」
「…………」
「反対派も居るだろうケド、いい加減認めなよ。あたしが居なけりャ解決出来なかった事件の数々を。今回だって、あたしが『渋谷の防犯カメラを見ろ〜』って言わなかったら、どうせアンタらのことだから、証拠1つすら出せずに迷宮入りだッたでしょ」
杏樹の言葉一つ一つが、正論だった。それ故に、杏樹を毛嫌いしている遊馬ですら、彼女に反論をすることはない。
事実、杏樹が正義執行人になるまで、警視庁は失態ばかりで恥を晒すばかりの国家の犬だった。重大な事件に限って解決が出来ず、更にその情報から影響を受けてか民衆の治安は悪化する末路。4年前までは、警視庁が発表した「年間の事件数ランキング」がワースト1位を更新し続けるほど警察は無力だった。
ところが、杏樹が正義執行人に任命されてからはどうだろうか? 事件の数はワースト1位を更新せず、重大な事件も未然に防がれている。杏樹が任命されてから、明らかに治安は良くなっていく一方である。それでも、治安が悪くなったあの年以前ほど治安が良くなったわけではないが。
「こンな会議なら出るだけ無駄だったネ。ほら、解散かいさ〜ン」
いつもより幾分か饒舌だった杏樹。その饒舌ぶりからも、いかに杏樹が会議を聞いて不機嫌になっていたかが分かるだろう。
一方的に話を終えれば、杏樹は勢いよく席を立ち、出入口の扉の方へと歩いていく。誰も彼女には口を出すことが出来なかった。そこに居る全員が、自分達の惨めさや未熟さを彼女によって知らされたから。思い出されたから。その勢いのままに、杏樹は扉を開いて会議室から出ていってしまった。
「…………おい、……杏樹」
「……アレ、岬ちゃンだ。どうしたノ」
エレベーターを使っていち早く帰ろうとする杏樹を、急いで追いかける者が居た。閉じていく扉をつま先でガードして、息を切らしながら杏樹に話しかける者。それは岬だった。
杏樹は、岬が入ったのを確認すれば、再度エレベーターの扉を閉める。狭いエレベーターという箱の中に、2人きりの状態。息を整えつつ、岬は言葉を交わす。
「……悪かったな、急に呼んで」
「いやぁ、別に〜? 言った通りあたしはどうなろうが知ったこっちゃないシ」
「それなんだが……多分、解雇などは確実にされない。1番上の方がお前の続投を望んでる」
「1番上……あの人かァ」
会話を続けていると、すぐにエレベーターはロビーに到着した。情けもなしにそのまま帰っていく杏樹の横で、岬は話を続ける。
いよいよ、冬が来るのだな。杏樹を追いかけて、玄関から外に出た時、岬はふとそう思った。白く濁った自分の息が目に見えて、辛いものを食べたあとのように鼻がツンっと冷気にやられる。その随分久しぶりな感覚に、思わず会話を途切れさせてしまっていた。
「お〜い岬ちゃン、いきなりどうしたノ? 突然死?」
バイクに跨りつつ、いきなり無言になった岬の顔を覗きながら杏樹は呟く。
「……あ、あぁ。悪いな、ぼーっとしてた」
「大丈夫ゥ? さっきの会議でも発言してなかッたシ、具合でも悪いンじゃない?」
いつもの岬なら、会議などでは誰よりも発言する。不明瞭なことがあったり、矛盾があったりすれば、几帳面な岬はそこを見逃さないから。だが、今回の会議で、岬は何一つ発言をしなかった。杏樹以外で唯一終わりまで口を開かなかったのは、彼女だけだった。
「大丈夫だ。話の続きに戻ろう」
「寒いシ早く帰りたいから、簡潔にどォぞ」
「年明けしないくらいに、きっとまたお前に仕事が入る。『RENA』の次は、『怪盗ヴァイパー』ときたもんだ。警視庁も頭を抱えてる」
怪盗ヴァイパー。それは、今成人を迎えている人なら誰もがわかる、伝説とさえ言われた怪盗だ。ファンタジックで鮮やかな手口を使って事前に予告したものを盗んで、あの警察が何も出来ないままその姿を忽然と消す。そんな彼の姿に憧れる者さえ当時は現れたし、今でも語り継がれるほどに彼の影響は凄まじかった。
そう、当時は。というのも、怪盗ヴァイパーが最後に姿を現したのは、10年も前のこと。北の大地にて「
「怪盗ヴァイパー、ッて……確かもういなくなッたンじゃあないノ? あたしの記憶違い?」
「ああ、そうなんだが……。極秘にはしていたものの、今年に入ってから、既に2件。10年前と全く同じ手法で物が盗まれている」
「へェ。興味深いネ」
いつもは事件に対する興味や関心なんて全く抱くことのない杏樹。その杏樹ですら、興味を示す怪盗ヴァイパー。いったいそれは、どんな人物なのだろうか────?