午後の授業を終えて画面を閉じると、さっそく舌が火傷するくらいの熱いコーヒーを淹れた。
ぼんやりと何も貼っていない白壁を眺めながらソルダとの会話を反芻する。
ソルダは言った。12の楽器を盗んだこと、そしてさらに大きな何かを盗もうとしていること、そして2回目の「ファ」の音が鳴るときに待ってると。
でも、2回目の「ファ」の音なんてない。朝の「ド」から始まり夜の「レ#」までがこの街で鳴らされる鐘。
それ以降は外に出てはいけないという決まりになっている。
2回目の「ファ」の音とはつまり、一日の終わりを告げる鐘の音が鳴った3時間後。真夜中だ。
コーヒーカップを持つ手が震えていた。行くべきか行かない方がいいのか。答えは決まっている。
「NO」だ。調和を乱すなどということはこの街では重罪。捕まれば終わり。そうでなくても、もうここにはいられない。
揺れるカップを両手で持って立ち上がる。
何もない白壁にベッドと机、キッチン。
棚には教科書やノートに勉強道具と、敷き詰めた多くの楽譜。
ジュニアスクールのときから変わらないアパートの1室には、たとえハーモニーから外れようとも1人で生きていくには十分なモノが与えられている。
危なっかしいコーヒーカップを机に置いて、僕は棚から適当に楽譜を取り出した。
開けば12のパートに分かれた五線譜にびっしりと落書きのような乱雑な字で指示が書かれている。
『いいか。上手い下手はどうしても存在する。だが、大事なのは全体の調和。ハーモニーだ。誰か1人が足を引っ張ったとしても、全体が整っていればそれでいいんだ』
浮かんだのは過去の記憶。いや、もしかしたら幻影に過ぎなかったのかもしれない。
指揮をする者にソロの気持ちなんてわからない。
指揮者も常に
そう、わからないんだ。
僕は楽譜を胸に抱えると、そのページを思い切り破いた。罪悪感も沸いたがそれよりも遥かに大きな激情が全身を貫く。
別のページを破く、また別のページを、全部のページを破り捨てる。
棚から全ての楽譜を引っ張り出すと片端から次々とページを切り裂くように破り捨てていく。
激情に呑み込まれるままに、歓喜で震える心のままに。
気がつけば綺麗に整えられたはずの部屋は五線譜で埋め尽くされていた。
息はとっくに上がっていて、体が震えていた。
五線譜を踏みながらテーブルへと向かうと、残っていたコーヒーカップを手に取った。
「それは君がソロだったから」
ソルダはそうも言った。
12が絶対のこの街のなかで、僕はハーモニーを知らない。
12人の中に組み込まれた音階の中で僕だけが音が鳴らない。
「
12の楽器が盗まれたとニュースで知ったとき、僕は心の中ではワクワクしていた。
何かが起こるかもしれないと思い、いや、願っていたんだ。
熱いコーヒーを一気に飲み干した。聴いたこともない
*
2回目の「ファ」の音がファンファーレのように頭の中で鳴った。
身じろぎすることなく時を数えていたベッドから隣人に気付かれぬよう静かに降りると、最低限の荷物だけを持って部屋の外へと出る。
外は小気味いい静寂が広がっていた。街中の灯りはとっくに消されて夜空には満天の星が輝いていた。
12個の惑星もよく見える。まるですぐにでも落ちてきそうだ、と思うほどに大きい。
「天球の音楽」と昔の哲学者は言った。12の始まりだ。惑星も12、音階も12、それならば世界は12でできている。──調和の取れたキレイな理屈。
でも、「1を増やして13にすればいい」。当たり前のようにそう言ったソルダは、昼間のカフェの前で待っていた。
「ソルダ!」
僕の呼びかけにソルダは唇に人差し指を当てて応えた。
「だから、声を荒らげてはダメ。だけど、来てくれてありがとう。さあ、行こう」
「どこに? そして、何を盗むのか」
「そういうのは後回しって決まってるんだ。早く行かないとほら、
闇に紛れて僕らは進んだ。静かに響く足音はさながら2人のコンチェルトのよう。
「12の楽器は予告なんだ。のろまな警備隊は気付いていないかもしれないけれど、
「僕もそう思う。
ソルダは連なる柱の隙間を抜けるように市街地へと向かっていた。
ここまで来れば狙いは何なのか、僕でさえなんとなくわかってきた。
「この街はいつも12でできている。12、12、12。調和を重んじ自由なんてなんにもないこの街はいつも12で支配されている。だから、盗むんだ。12をね。この街の象徴の12を盗む」
突然、眩い光が僕らを照らした。ソルダの手が僕の服を引っ張り柱の中へと入れてくれた。
すぐ真横を銃弾が通った。