道明沢堤の一度目の普請が終わったという知らせが耳に入ったのは、次重が正興様付きの小姓となって一年が経った冬のある日のことだった。
学問の得意だったひとつ年上の小姓仲間は、重傷を負って若いながらに隠居を余儀なくされた秀将様とともに、今は道明の館を離れ、里山の庵で暮らしている。そこで、領民が毎年悩まされてきた洪水を鎮めるため、堤防の普請に全力を注いでいるのだ。
しっかりとした堤を作るには、まだあと幾度もの普請が必要だと聞いた。秀将様と伊縁は、残りの人生をすべて道明沢堤と領民の暮らしに捧げる覚悟なのだ、と次重は思う。
隠居された秀将様についていくだけの意志の強さが、伊縁にはあった。
ともに過ごした時間は短かったけれど、伊縁と出会って切磋琢磨しあえたことは、次重にとって大きな助けとなった。その伊縁は、もう道明の館に戻ってくることはないだろう。会えないこともないけれど、正興様の小姓になった自分の立場では、もう会うことは叶わない。
淋しい気持ちはあれど、伊縁が変わらずに頑張っているという知らせは、次重の励みになる。
牧野次重は、道明家に仕える牧野家の次男だ。兄は、すでに道明沢武士として立派にやっている。
元服したばかりの次重だけれど、今のままでは牧野家の食い扶持を減らすだけだ。早く名を上げるか養子に行くかして家を出て行かなければいけない。
自分のとりえは武術に長けていること。とりえを活かせば、生きていく道は開ける。そう教えてくれたのも伊縁だったことを次重は思い出す。
「自分の得意なことで道明沢の役に立てれば」
何事にも一生懸命取り組む伊縁のひたむきさは、今も次重の心の支えとなっている。次男という立場に生まれた自分の運命を嘆いている暇があったら、武術の腕を磨こう。
次重は、時間を見つけては鍛錬を重ねるのを日課とするようになっていた。
日々鍛錬をするのにはもうひとつ理由がある。次重が初陣を果たした道明沢入り口での戦から一年。正興様が近領から奥方様をお迎えしたおかげで同盟が結ばれ、領地や兵力も増したと言うものの、ますます戦乱は激しくなっていく一方だ。
そんな中、次重は正興様から期待される人材にならなければいけない。今は小姓の中のひとりでしかない中、頭ひとつもふたつも抜きん出ることが重要なのだ。
次重がお勤めを終えて牧野の屋敷へ帰ろうとした時のことだった。月あかりが冴え冴えと道明沢の地を凍らせている冬の夜である。
「正興様……?」
道明の館の中には大きくはないが泉水があり、脇に柳の木が植えられている。冷たい夜風にさわさわと柳の葉が揺れ、湖面の揺れる様子に次重がふと目を遣れば、泉水へ姿を映すように佇む正興様の姿があった。
凍えるような月の光と、ひとり立つ正興様。どちらも胸を突かれるようで、次重は思わず息を止めて見つめた。
秀将様を次期領主候補から外れるよう仕向けたのは、正興様のご実家、蓮司家だという噂が立っている。主君である道明家に一番近しい家柄が蓮司家であるとはいえ、正興様を快く思わない者も道明沢武士の中に少なからずいることは、次重も知っていた。
囁かれる噂の中、正興様は道明家の養子となり、秀将様が迎えるはずだった姫を娶った。現領主である元秀様と並んでまつりごとの中心となり、道明沢は正興様の時代へ移ろうとしている。
泉水に映る冬の月。ゆらゆらと揺れるその三日月へと、正興様は手を伸ばした。表情の細かなところまでは読み取ることはできないけれど、次重の目にその仕草は、どこか届かないところへ思いを馳せているように見えた。
すべてが思い通りになっているというのに、どうして正興様はそのような仕草をなさるのだろう。蓮司家の後ろ盾があり、奥方様がいて、次期領主の立場も盤石であるというのに、正興様の手は、手にすることのできない何かを掴もうとするかのようだった。
次重は、音を立てないようそっとその場を離れた。これ以上、正興様のそんな姿を見てはいけないような気がして。
伊縁が残した学びの場は、今は次重を中心として勤めの空いた時間に行われている。武術の得意な次重は、小姓仲間の打ち込み相手をすることが多い。
正興様の姿を見た翌日、次重は動揺を何とか隠しながら、小姓仲間に請われて汗を流していた。
「次重殿、今日もお相手ありがとうございました」
「こちらこそ、良い汗をかかせてもらいました」
まだまだ幼く経験の浅い者同士、切磋琢磨できる仲間がいるというのは心強いことではあるものの、打ち込みの相手としては少し物足りない。次重に足りないもの、直すべきところを教えてくれる仲間は、今いる小姓仲間の中にはいなさそうだ。次重は少しだけ気落ちしていた。
いや、落ち込んでいる場合ではない。ぱんと顔をはたいて気持ちを切り替える。次のお勤めが待っている、急ぎ正興様の館へ戻らなければ。次重が足を速めようとしたその時だった。
「先の御前試合で小姓組を勝ち抜いたのはお前だったな、次重」
次重の視線の先に立っていたのは、正興様だった。
「ま、正興様」
次重は慌てて、その場で畏まる。お勤めには差し障りのない時間のはずだったけれど、もしかして何かし忘れたことでもあっただろうか。
「相変わらず小姓どもでじゃれ合いをしているのか」
「は、はっ。お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ございません」
「右足の入り込みが甘かった」
「……はっ……?」
次重は何を言われたのか一瞬分からず、思わず顔を上げた。
「もっと深く入り込め。相手との間合いが甘い」
正興様はそれだけを言うと、次重に背を向け去って行った。
「は、はい。ありがとうございました」
その背中へ向けて次重はかろうじてお礼の言葉を述べるも、もう声は届かない。
秀将様のたたずまいにも威圧感はあったけれど、正興様のそれはまた違う冷酷さがある。何を考えているのか分からない冷たい表情に、次重はいつも身の縮むような気持ちでいた。
そんな正興様から声を掛けられ、あまつさえ打ち込みの助言までいただいてしまうなんて。次重はしばらくその場から動けずにいた。
あれはきっと、正興様の気まぐれだ。たまたま目に入って、小言を言いたくなっただけに違いない。自分のようなひとりの小姓を気に掛けて下さるほど正興様は暇ではないだろう。
けれど正興様の一言は、的確に次重の弱点を見抜いたものであったことに次重は驚いていた。
「右足の入り込みが甘い」
その通りだ。自分がずっと気になっていたところを、正興様は示して下さった。御前試合でのことも覚えていて下さった。
次重の心は上向いた。正興様の言葉を胸に留めて鍛錬に励もう。気まぐれだったとしても、正興様の言葉は、次重にはとても嬉しいものだった。
次重の予想に反して、正興様の気まぐれは一度で終わることはなかった。
「小姓同士ならあれで良いかもしれんが、実戦となればあっという間に斬られているぞ。初陣はまぐれ当たりだったと思え」
「はい、ありがとうございます」
次重はまたもやお礼を言うので精一杯だ。正興様の真意が分からないまま、次重の胸の中に、正興様からいただく言葉が日毎に積み重なっていく。
「お前の相手はもっと強くても良い。思い切り踏み込める相手を探せ」
「次の御前試合でも、必ず勝ち進め。道明正興の小姓は強いというところを見せろ」
「お前の兄はすでに武勲を立てている。お前も負けるな」
正興様の掛けて下さる言葉は、次重の心を奮い立たせてくれる。次男の自分でも生きる道はあるのだと思わせてくれる。正興様の小姓として強くあれと鼓舞されているように感じられて、今まで次重が持ったことのない勇気が湧いてくる。
それにしても、正興様はどうして自分などに声を掛けて下さるのだろう。
次重は思い出した。数日前にお見掛けした、あの少し淋しそうな正興様の姿を。正興様は、もしかしたらだれかと自分を重ねているのではないだろうか。
その時はふいに訪れた。その日のお勤めを終えて館を後にしようとした夜、次重は再び泉水のほとりに正興様の姿を見つけた。
「正興様」
思わず掛けた次重の声は正興様の元へと届き、その顔はゆっくりと次重の方を向いた。
「次重か」
「も、申し訳ございません。お声を掛けてしまったご無礼をお許し下さい」
慌ててその場に畏まった。しんとした空気が次重の身を包み込み、次重は顔も上げられない。少しして、正興様の声が返ってきた。
「良い。顔を上げろ」
おそるおそる次重は顔を上げる。そこには、いつもの皮肉げな笑みを浮かべる正興様はいなかった。
「明日もまた打ち込みをするのか」
「は、はい。時間があれば。強くなることが、私の成すべきことでございますから」
「そうか。励めよ」
「はっ」
いつもと違う正興様の眼差しには、何かを抑え込んでいるような苦しみのようなものが混じっているような気がして、次重の胸も苦しくなる。どうして正興様はそんなにお辛そうなのか。
「正興様……どうして私なんかにお声を掛けて下さるのですか」
次重は、失礼を承知で正興様の胸の内を尋ねてみた。たかが小姓ふぜいで生意気なことを聞いているとは分かっている。正興様のご様子を気にする権利など自分にはないことくらい。けれど、あの三日月の晩、だれも知らない孤独な姿を見て以来、正興様の心に少しでも添いたいと思う自分がいる。
「お前を見ていると思い出す。自分の生きる道を真っ直ぐに突き進む者がいたことを」
次重の問い掛けに、少し間を置いてからそう返事が返ってきた。声色は低く、強い思いを堪えているようにも聞こえて、正興様の心の声を聞いているように次重には思えた。
「自分の進むべき道……」
「ああ。次重、お前もその力を以て自分が正しいと思う道へ進め。それがお前の生きる道だ」
「正興様」
「俺は俺が正しいと思う道を選んだ。後悔はしていない。たとえだれかに恨まれようとも。俺がこの道明沢の領主になることで、すべてに決着がつく」
そうか、正興様は自分が道明沢武士の一部から疎まれていることをご存知なのだ。ご存知の上で、おそらくだれかのためにこの道を選ばれた。
正興様は、次重を通してだれかに思いを馳せているのだ。奥方様でもお身内の方でも癒せない、正興様の本心。もしも自分を通してそのお気持ちが少しでも楽になるのなら、自分は正興様の思いに応えられるような存在になりたい。
「私は正興様のおそばで生涯仕えます。正興様のためにこの力を使い切ります。それが自分の生きる道です」
うまく言葉にすることができない。読み書きが苦手だから言葉を尽くすことができないけれど、どうか自分の気持ちが正興様に伝わりますように。
正興様は次重の言葉に、ふと小さく笑った。それはいつもの冷たく皮肉げな笑みとは違っていて、次重は慌てて目を伏せる。
「そうか。お前は俺に仕えるか」
「はい」
「頼りにしている、次重」
「はい」
目を伏せて畏まる次重の肩に、軽く正興様の手が置かれた。それはすぐに離れ、正興様が踵を返す気配に変わる。
次重は、気配が消えるまでその場で畏まった。肩に置かれた手の重み、そして頼りにしているという正興様の言葉を噛みしめながら。
孤高を貫く正興様の本当の心に、少し近づかせてもらった気がした。期待に応えられる武士にならなくてはいけない。もっと強くなろう。もっと強くなって、正興様のために働こう。何があっても正興様のそばにいてお仕えしよう。次重はそう心に強く誓った。
道明正興のそばに牧野次重あり。そう近領へ広まるのは、間もなくのことである。
終