道明沢は、案の定もう一度大きな洪水に見舞われた。道明沢堤の完成は間に合わず、暴れ川の濁り水で、土地はぬかるんだ。
けれど、築山した分だけ川の勢いは確実に弱まり、秀将様と伊縁の考えが正しかったことを証明してみせた。
長かった夏は終わりを告げ、伊縁の好きな秋の風が、ひんやりと庭を吹き抜けていく。集まった家臣領民たちも、数々の困難を乗り越えて、ようやくほっとした様子だ。
「道明沢堤の完成まで、引き続き差配を進めてまいります。みなさん、よろしくお願いいたします」
話しぶりもだいぶ板に付いてきたのではないかと、伊縁は思う。今日は後ろで秀将様が見ているので、落ち着かないことこの上ないのだけれど。
「秀将様も何かおっしゃって下さいませ。わたくしだけでは、示しがつきません」
「何も言うことはないぞ、伊縁」
「本当でしょうか」
「ああ、さすがは俺の片腕だ」
「褒めて下さるのは嬉しいのですが、あまりじろじろ見られるとやりにくいのです」
「何故だ。俺の伊縁を俺が見て何が悪い」
「……困ります」
みんなが帰ったあとの寺には、秀将様と伊縁のふたりしかいなくなる。
ここは、隠居した秀将様の庵として、新たな役割を与えられていた。領民たちが協力して、秀将様と伊縁が住みやすいように修復してくれたのだ。
都から僧を呼ぶのではなく、住職を取り立てて欲しいと秀将様が嘆願をして下さったおかげで、ふもとに普請された大きな寺では、道明沢武士の小さな子弟たちが学問に励んでいる。今まで通りこの寺で学んだら良いのにと言ったら、
「ここに寺子が来たら、お前との暮らしが騒がしくなって困る」
と、秀将様はむすっとした顔をするから、伊縁はおかしくなって笑った。
「何を笑っている」
「いいえ、何も。さて、そろそろ夕餉の支度をいたしますね」
今夜は秀将様の好きな豆を炊こうか。伊縁は領民たちが持って来てくれた貴重な作物の中から、枝にたっぷりと実った豆をざるに取った。
「豆か。旨いな」
「ええ。今年は残念ながら洪水にやられてしまいましたが、来年の夏までに道明沢堤を完成させれば、領民たちの田畑もぐんと作物が実るでしょう」
「正興から書状が来ていたぞ。道明沢堤については、仕方がないのでそちらに一任すると。汚い字だった。よほど悔しいのだろうな」
「正興様には、秀将様ほどの力はございませんから」
「俺には優秀な片腕がいるからな」
「さて、だれのことでございましょう」
「口だけはますます達者になりおって」
館にいた頃と比べたらとても質素だけれど、秀将様と向かい合って夕餉をいただくこの時間の、なんと温かく楽しいことか。
洗い物を終え、床の支度をすると、着替えの不自由な秀将様のお手伝いをして、伊縁も隣の床についた。
小さな庵の中にも、伊縁のやることはたくさんある。伊縁の生きる理由がここにすべてある。秀将様という、伊縁の生きる理由が。
秋はあっという間に体温を奪っていくということをすっかり忘れていた。
「さむ……」
朝明けの空はまだ白んでもいないというのに、伊縁は手足の冷たさで目が覚めてしまった。
隣の寝床を見れば、秀将様は肌寒さを気にもせず眠りについている。身体が大きいから体温も高いのだろうか。
伊縁は、秀将様の夜着の袖にそうっと自分の手先を差し入れた。ほら、思った通り温かい。
「こっちへ来い」
「わ」
「まったく、言えば良いものを」
「申し訳ございません、起こしてしまいました」
「温まることをしたいのか」
「い、いえ、そういうわけでは」
「なんだ、それならそうと言え」
秀将様の右腕に腰を引き寄せられ、夜着の中に抱き込まれた。伊縁の上に秀将様の半身が重なる。
「ひ、秀将さま、もうすぐ朝でございます……」
「それがどうした。ここには昼過ぎまでだれも来ない。俺とお前のふたりきりだ」
片腕で自重を支える秀将様を労わるように、伊縁は自らを秀将様の上に重ね直した。
「良い眺めだな、伊縁」
「だってここには、秀将様とわたくしのふたりだけなのでございましょう?」
伊縁の冷えた手先が熱くなるのに、そう時間は掛からない。
終