「あまりにも酷いではありませんか! 秀将様は身を挺して道明沢を守られたのですよ。それを隠居などと」
「伊縁、落ち着け。大きな声は傷に響く」
「申し訳ございません、ですが!」
深手を負った秀将様に対する非情な仕打ちに、伊縁は激昂していた。
傷の手当てを終えたあと、数日間秀将様は熱にうなされた。濡れた手ぬぐいがすぐに乾いてしまうほどの高熱に、伊縁は代われるものならと何度も思い、出来ない口惜しさを抱えながら献身的に看病を続けた。
左腕を失った肩の傷がようやく塞がりかけ、熱も下がってきた秀将様のところへ、いましがた元秀様が見舞いに来られたのだ。
「この身体では、妻をめとるのもままならない。次また戦があっても、十分には戦えないだろう」
元秀様が次期領主から秀将様の名を外す、とおっしゃるのを、伊縁は部屋の隅でこぶしを握りしめながら聞いていた。
「道明沢の次期領主にふさわしいのは、秀将様です……」
元秀様が去ったあと、伊縁は悔し涙をぐっと堪えながら、秀将様の背中に額を当てた。羽織を着せかけた秀将様の背中は、いつでも大きくて伊縁を安心させる。
「俺はな、伊縁」
背中を向けたまま、秀将様は伊縁に話しかけた。
「隠居せよという言葉は、父の優しさだと受け取った」
「……優しさ?」
「俺は今まで、出自のせいでいろんな人間から疎んじられてきた。この先も、意にそぐわない思いをするだろう。父は、俺の足かせを外してくれたのかもしれないとな」
「秀将様」
「少し疲れたな。伊縁、膝を貸せ」
「は、はい」
伊縁の膝の上にごろりと頭を乗せると、秀将様は穏やかな様子で目を閉じた。こんな安らいだ表情の秀将様は、初めて見る。
今までずっと道明家に囚われ続けてきた秀将様が、ようやくたどり着いた答えなのかもしれない。伊縁は、そっと秀将様の髪を撫でた。
夜が明けて間もない早朝のこと。
秀将様はまだ、部屋でお休みのようだ。今のうちに雑用を済ませてしまおうと、あれこれ汗を流していた時だった。秀将様の身体を拭く手ぬぐいを干しているところへ、じゃり、という足音とともに正興様が現れた。
「怪我人の看病も大変だな」
「正興様……」
正興様は、いつもと同じように、少し皮肉げな笑みを浮かべていた。
「わたくしは秀将様の小姓でございますから」
「お前は、俺の小姓になるのだぞ」
「……え?」
正興様の言った言葉の意味がよく分からない。伊縁は、思わず怪訝な表情を浮かべた。
「嫌そうな顔をするな。お前のあるじがそう言ったのだ」
「……どういうことでしょう」
「聞いていないか。秀将らしいな」
「聞いていないとは……」
「次期領主は俺に頼むと、秀将自ら言ってきた」
「そんな!」
秀将様が表舞台を去るのであれば、正興様が次期領主の座に付くのが道理であることは、伊縁にも分かっている。けれど、それを秀将様自らが正興様に言付けるなんて、そんなことあるだろうか。
「まあ到底信じられるものではないだろうな。俺のしたことを思えば」
正興様の口元が少しだけさみしそうな笑いに変わった。それは自嘲しているようにも見えて、伊縁ははっとした。
「これは、秀将から固く口止めされていたことだが、詫び代わりに教えてやろう。夜が明ける前、秀将は俺を呼び付けて言った。俺に次期領主を譲る代わりに、二つの約束を守れとな。ひとつは今後も秋津家を取り立てること。そしてもうひとつは、秀将の使用人および小姓の面倒を見ること」
「そんなことを秀将様が……」
「そうだ。秀将は、お前のことを俺に託した。憎んでいる筈の俺に、だ」
「どうして……」
「それは俺も聞いた。秀将はこう答えた。大切なものを守るには、これしかないのだと。俺ならば、道明家も秋津の家もお前も一生面倒見てやれるからな」
秀将様は分かっておられない。どちらが守る守られるなど関係ない。伊縁にとって一番大切なものは、秀将様しかいないというのに。
「だが俺は断る」
「……正興様?」
「俺は、道明家とその家臣を守るのに手いっぱいだ。秀将のお下がりまでは面倒見きれん。秀将はとっくに館を去ったぞ。今から走れば追い付くかもしれんがな」
「正興様……」
「俺が道明家の跡取りになれば、お前を自分のものに出来るという思いに囚われていた。だが秀将とお前を見ていると胸焼けがして敵わん。さっさと俺の前から消えろ。俺は道明家の領主となり、落ちぶれたお前たちを笑ってやるとしよう」
正興様は、顎で里山の方角を指し示した。伊縁、秀将様、正興様がそれぞれの思い出を抱えてきた菩提寺へ。そこへ行け、と正興様は言っているのだ。
「はい」
伊縁は、持っていた手ぬぐいの山を正興様にぐいと押し付けると、急いで小姓部屋にある小さな行李を持ち出した。荷物はこれだけ。あとは身ひとつで秀将様の元へ走るのみ。
「あ、正興様」
「何だ」
「お詫びと言うならその手ぬぐい、わたくしの代わりに干しておいて下さいませ。それで水に流すことにいたしましょう」
「……なっ」
「それでは失礼いたします。どうぞお達者で」
大量の手ぬぐいを押し付けられてあっけに取られている正興様に会釈をすると、伊縁は持てるすべての力を足に込め、走り出した。
「待って! 止まって下さい!」
そう声を掛けるのが精一杯だった。伊縁は山道の急な上り坂を一気に駆け上ると、道を曲がろうとする背中を必死で呼び止めた。
息が上がってもう動けない。膝に両手をつき、肩で大きく深呼吸を繰り返す伊縁のそばに、大きな人影が立ちはだかった。
「何の用だ」
「どうして、わたくしを置いて行かれたのですか」
「秋津家の一人息子を、次期領主から外された俺がいつまでも手元に置いておける道理がないだろう。お前は、道明家の家臣なのだから」
「秀将様にしては随分と浅慮でございますね」
「なんだと」
「大方、その身ではわたくしを守れないからとでもお思いなんでしょう」
「……っ」
図星のようだ。伊縁は上体を起こすと、少し怒ったような表情を作る。怒ってなどいないのだけれど、秀将様には少しお灸をすえなければ。
「秀将様は、正興様が絡む話となるとすぐに短気を起こされます。いい加減にして下さいませ」
「……お前も言うようになったな」
「ええ。だって秀将様がおっしゃったのですよ、わたくしは秀将様の片腕だと。これからはわたくしが秀将様の左腕になりますから、どうぞご心配なさいませぬよう」
「おい、俺はそういう意味で片腕と言ったのではないぞ」
「そういう意味もこういう意味もございません。わたくしは死ぬまで、秀将様のそばから離れません。ご迷惑でしょうか?」
「そんなことはないが……」
「では決まりです。参りましょう」
秀将様の荷物を取ると、伊縁はさっさと歩き出した。歩いて進むのならば、この里山は伊縁にとって庭のようなものだ。蛇道だって、今の伊縁なら迷わず歩いて行ける。秀将様と一緒ならば、どこへだって行ける。
里山を覆う木々からは、夏の終わりの匂いがした。