「秀将様っ! どうして……っ」
どうして、あのまま寝てしまったのだろう。
朝の気配で飛び起きた伊縁は、だいぶ前に主がいなくなったであろう、冷たい床に手を当てて悔やんだ。戦へ連れて行くという約束は果たされなかった。秀将様は、伊縁を置いてひとり出立されてしまったのだ。
昨夜、秀将様と身体を重ねた伊縁は、そのまま睡魔に襲われてしまった。秀将様は、よく眠る伊縁にかいまきを掛け、そっと出られたのだろう。
道明沢堤のことを託されたのだ、ということは伊縁にも分かっている。分かっているけれど。
(秀将様と同じ場所で死にたかった……)
秀将様がもしいなくなってしまったら、どうやって生きていけば良いのだろう。伊縁は、かいまきに残る昨夜の香りに顔をうずめた。
あれが、秀将様と交わす最初で最後の情交になってしまうのだろうか。ひとりになる伊縁を不憫に思って、抱いて下さったのだろうか。かいまきに、伊縁の涙が一粒、二粒と染み込んでいく。ほのかな湿り気が、秀将様の肌のぬくもりを思い出させる。
(おい伊縁。勝手に俺を殺すな、馬鹿者)
「え? 秀将様?」
かいまきの奥から秀将様の気配を感じたような気がして、伊縁は思わず顔を上げた。
(死地ではあるが、俺はそう簡単に殺られはせん。お前も、お前に出来ることをしろ)
「わたくしに出来ること」
伊縁に出来ること。それは蓄えた知識を活かすこと。その力を秀将様は信じ、俺の片腕と呼んで下さったのだ。目の前の哀しみに明け暮れて、すっかり忘れていた。
勝手に道明勢が負けると、どうして思い込んでいたのだろう。兵力は五分五分。敵だって、こんなところで無益な血を流したくはないだろう。
伊縁はごしごしと顔をこすった。自分がここに残されたのは、つとめを果たすためだ。考えろ。考えるんだ。道明沢のために、秀将様のために、自分は何が出来るのか。
伊縁は立ち上がり、急いで着替えた。迷っている暇などない。
「父上、どうしても元秀様へお話ししたいことがございます。主殿へ上がらせていただけませんか」
「ならん。お前は選ばれなかった身だ。戦の場には呼べぬ」
主殿は、伊縁が思っていた以上に焦っていた。秀将様が館を出立し、道明沢の入り口に陣を構えてまだそれほど時は経っていない筈だけれど、戦況は決して良くはないのだと、伊縁は察した。
「わたくしには、道明沢を守る手立てがございます!」
主殿に集まっている者たちが一気にどよめき、伊縁に注目が集まった。この頼りない若造に何が出来るというのだ、という厳しい視線を感じる。気圧されそうになるのを必死に踏ん張り、伊縁はその視線を受け止めた。
「秋津の息子か。聞こうではないか」
声を上げたのは、主殿の奥に座る元秀様だった。息子である秀将様を見捨てようとしている張本人。
伊縁は、秀将様を見捨てようとするこの領主が嫌いだ。けれど、秀将様自身はこの父親を許している。秀将様が盾になってこの道明沢を守れるのなら、それで構わないと言っている。ならば伊縁は、秀将様とともに戦うのみ。伊縁の心は、いつも秀将様のそばにある。
「秀将がよく食い止めている。敵にも相当の打撃を与えているのは間違いない。だが、こちらにも犠牲が出始めている。お前に何か策があるなら、申してみよ」
「……はい」
秀将様から「お前に出来ることは何か」と心の中で問われた時から、伊縁は考えていた。伊縁がずっと学び続けてきた道明沢の地の理。ここから、伊縁が導き出せることと言えば──。
(そうだ。都へ攻め上がる陸路は、道明沢だけじゃない!)
道明沢堤を差配する際、伊縁は測量の出来る者を連れて、何度も岩山を訪れていた。あの岩山を擁している峰もまた、都へと繋がっているのだ。
遠回りにはなるけれど、まだ堤防の完成していない道明沢を通り抜けるよりも、はるかに安全だ。
「堤防は、まだ完成しておりません。そうこうしているうちに、暴れ川はもうひと氾濫起こすことでしょう。そうなったら、それこそ道明沢を要塞にするどころの話ではなくなります。毎年、この地は水浸しになるのですから」
「たしかにそうだ。今のこの時期、また洪水が起こってもおかしくはない」
主殿に会している一同が、顔を見合わせ頷いた。
「なるほど一理ある。だが、そのことをだれが敵に伝えるのだ」
元秀様が、まるで伊縁を試すかのように問うた。
戦が始まった以上、敵陣への使者は、死をも覚悟で臨まなければいけない。その役目をだれが果たすのだ。秀将様を救うのはだれだ。
「わたくしが参ります」
伊縁の言葉に、迷いはなかった。
「伊縁」
敵陣へ向かう支度を整えた伊縁は、父の声に振り向いた。伊縁も秀将様と同様、元秀様から見殺しにされようとしていることは、父もとうに気が付いている筈だ。何より父の命、そして秋津家の存続そのものも危ぶまれるかもしれない。
申し訳ない気持ちでいっぱいだ。けれど、もう引き返すことは出来ない。
「父上。親不孝な息子で、申し訳ありません」
今の伊縁には、それしか返す言葉はない。
「いや、それで良い。それでこそ道明沢武士だ」
伊縁は、その言葉に驚いて父を見つめた。初めて父に褒められたかもしれない。幼い頃から叱られてばかりだった父に、ようやく武士として認めてもらえた気がした。
「秋津の家のことは、気にしなくて良い。お前が良いと思う方へ行きなさい」
「はい。行って参ります」
伊縁は、ただ秀将様のことだけを頭に思い浮かべながら、敵陣へひとり乗り込んだ。
頼りなげな小姓がひとりで交渉にやって来たとあって、はじめは頭に血を上らせていた敵方も、死をも覚悟した伊縁の姿勢、そして何よりその博識ぶりに目を見張った。伊縁の持ち込んだ道明沢一帯の子細な測量図が、功を奏したのだ。
秀将様率いる先陣の威力は敵の予想を上回っており、道明沢を討つのは得策ではないという空気も加勢してくれた。
伊縁が無事に交渉を成立させたことで、道明沢は入り口を突破されることなく、危機を脱した。道明沢を守り抜いたのだ。
伊縁は目的を達するや否や、館へと引き上げる先陣の中へ飛び込み、秀将様の姿を探して回った。
「秀将様! どこにいるのです、秀将様!」
──いない。秀将様が、いない。
伊縁は、自分に出来ることをいたしました。秀将様に言われたことを守りました。秀将様は、道明沢を敵から守り抜いたのですよね? そう簡単に死んだりなどしないのでしたよね? どこにいらっしゃるのですか?
ひとりの若武者が、秋津殿、と声を掛けてきた。初陣を果たした年下の小姓仲間だ。
「秀将様が、敵の大将と一対一でやり合っているのを見ました。助太刀をしようとしたら、ここは俺ひとりで良いと。その後は分かりません」
「そうでしたか。ありがとうございます。お疲れのところ申し訳ない」
「秋津殿のご活躍あればこそと聞きました。こちらこそありがとうございました」
伊縁の心は今にも砕け散りそうだった。万が一のことがあったらどうしよう、いや秀将様が死ぬ筈などない。心の中で押し問答が続く。
兵の流れに逆らって、あてどなく探し歩き、とうとう道明沢のはずれまで来てしまった。
「来たか、片腕」
伊縁は、声のした方に目を凝らした。今の声は間違いない、秀将様だ。
「秀将様? 秀将様なのですね?」
大きな木陰にもたれるようにして座っている人影を見つけた。何かを庇うように身体を縮めている。伊縁は慌てて駆け寄った。
「ご無事で何よ……、秀将様!」
「まあ無事とは言えんな、このざまだ。だが、死んではおらんぞ。お前との約束は守った」
なんということだろう、伊縁は衝撃で何も言えなくなってしまった。
秀将様が庇っていたのは、大量の血を流している左の肩だった。肩から先は、ない。
「ああ、秀将様……」
「やり合った敵も、相応に手負いの筈だ。道明沢武士の意地を見せ……っつぅ……」
「それ以上喋らないで下さいませ。今止血します」
「出来る……のか、お前に」
「やります!」
こんなおびただしい血など見たこともないけれど、止血なんてしたこともないけれど、ただ秀将様をお救いしなければという一心で、自分の着物の袖を引きちぎり、肩の付け根を固く縛った。
秀将様の口調は相変わらずだったけれど、顔色の悪さが、無理をしていることを物語っている。
泣きたい。大声で泣きたい。愛している人がこんな目にあって、どこの世に平気な顔をしていられる者がいようか。
けれど秀将様は、伊縁が泣くことを望んではいないだろう。泣いてはいけない。目を背けてはいけない。どんなことがあっても秀将様のそばから離れないと決めたのだから。
伊縁は必死で心の動揺を隠した。
「さあ、秀将様。お水を飲んで下さいませ」
「……お前が飲ませてくれ」
「分かりました」
伊縁は持って来た水筒から水を口に含むと、秀将様の唇へと運んだ。今は秀将様の望むことなら、何だってしたかった。
「飲めていますか?」
「もっとくれ」
「はい」
水を含んでは秀将様に口付ける。伊縁は何度もそれを繰り返した。生きていてくれたのならそれだけで良い。そう思いながら、また泣きそうになる。涙を堪えながら、秀将様の唇を水で湿らせた。
秀将様は、残った右腕で伊縁を抱き寄せた。戦は終わったのだから泣くな。そう言ってくれているかのように。
そうだ。秀将様はいつも伊縁を勇気付けてくれた。今こそ自分が秀将様を支えるのだ。伊縁は、秀将様の片腕を自分の首に巻き付けると、渾身の力を込めて秀将様を支え、立ち上がらせた。
「さあ、道明沢へ帰りましょう」