「申し訳ございません」
縄と口布を解いてもらった伊縁は、身体が自由になるや秀将様の前にひれ伏した。
気を付けろと言われていたのに、おめおめと捕まってしまった。秀将様に助けていただくなんて、本当になんて役立たずなんだろう。伊縁は、申し訳なさと情けなさでいっぱいだった。
人払いをした秀将様は、縮こまって詫びる伊縁の前にどっかりと座ると、
「顔を上げろ」
と短く答えた。もちろん伊縁は恐ろしくて顔など上げられる筈もない。
「いいから上げろ。顔を見せろ、伊縁」
おそるおそる身体を起こす。そこには、はあと大きく溜め息をつきながら、片手で額を覆う秀将様の姿があった。
「さすがの俺も肝が冷えたぞ。心配を掛けるな」
「本当に申し訳ございません……」
「怪我は──、まあ大丈夫だな。何か酷いことはされていないか」
酷いこと。あれは酷いことだろうか、いやたいしたことではない。秀将様を心配させてしまった、探させてしまったことに比べたら。
「何もされておりません。それよりも茶会のあとだというのに、わたくしなどのために、本当に申し訳」
「茶会なんぞどうでも良い」
秀将様は伊縁の言葉を遮り、語気を荒げた。
「館へ戻ると、あの者が慌てて俺の元へ走って来た。住職と話があるから先に戻れとお前に言われたが、お前は夜になっても帰って来ない。無理にでも一緒に帰るんだったと」
聞けば、とうに日没を過ぎた時刻だった。
「里山からはだれも降りて来てはいないと聞いて、お前がまだこの辺りにいると思った。お前のことだから、蛇道で足を踏み外したのではないかとな。案の定、何かが滑り落ちた痕跡を見つけたが、お前の姿は見当たらなかった」
探し歩くうちに、崖下に小さな炭小屋を見つけた。もしやと思って声を上げれば物音が聞こえ、ようやく伊縁を見つけることが出来たというわけだった。
「俺を狙う刺客が、お前を襲ったんだろう」
「あれほど刺客には気を付けろと言われていたのに、自分の身さえ守ることが出来ませんでした。秀将様が奥方様をめとるかどうかの大切な時に、ご迷惑をお掛けしてしまったこと、なんとお詫び申し上げたらいいか」
「馬鹿か、お前は」
「……え」
「馬鹿かと言っているんだ」
秀将様の手が伸びてきて、叩かれでもするのかと頭をすくめた瞬間、その大きな手は、伊縁を自分の胸の中へと引き寄せた。
「ひ、ひ」
「お前は俺の片腕だと言った筈だ。片腕を失くす方が、痛いに決まっているだろう」
伊縁は、夢でも見ているのだろうかと思った。いや、蛇道から滑り落ちた時に、頭を打って死んでしまっているのかもしれない。けれど秀将様の腕の力は強くて、それが夢などではないことを示していた。
正興様から、「好きだから小姓になったのか」と問いただされた時は、違うと言い返したものの、心の中に煩悩を飼っていないと言えば噓になる。
恋心を自覚したのは小姓になってからだけれど、伊縁の心は、ずっと秀将様だけに向いていた。秀将様のことを思うたびに、心の鈴が鳴っていた。
けれど当然のことながら、秀将様の隣にいて良いのは奥方様やお子様であり、自分などではない。自分はあくまでも秀将様の小姓で、その身を盾にするだけの存在。少し認められたからと言って、舞い上がってはいけない。
そんな葛藤で潰れそうになりながら眠れぬ夜を過ごし、日が昇れば、小姓としておつとめを果たさねばと思い直す。そんな日々を送っていたというのに。
こんなことがあって良いのだろうか。今、自分は秀将様の腕の中にいる。
秀将様は、伊縁を抱き寄せたまま続けた。
「俺の見えないところで、尽くしてくれていたことは知っていた。俺に認められずとも諦めなかったことや、苦手な武術に立ち向かったことも見ていた。何があっても、必ず俺のそばにいるものと思っていた。だがお前を探している間、お前がいなくなることを想像するのは苦痛だった。何より、お前を失うのが一番痛手なのだと」
秀将様の手にぐっと力が入り、その言葉が真実であると伊縁は知る。
「襲ってきた奴の顔は見ていないか」
暗くて顔は見ていない。けれど、あの蛇のようにぎりぎりと締め付けてくるような重苦しい圧力。あれはやはり……。
「知っている奴なのか。そうなんだな……正興か」
「秀将様、まだ何とも」
「あいつは何かとお前に絡んでいたな。正興は俺の従弟にあたる。母に男子が生まれない以上、実家の蓮司家は、間違いなく正興を祭り上げてくるだろう」
「そんな……」
「今日の茶会も、父は乗り気だったが、母の歯切れは悪かった。俺が妻をめとれば、蓮司家の出る幕はなくなる。向こうも焦っているんだろう」
正興様の、何か思いつめるような、暗い目つきを思い出す。昔にはなかった正興様の闇の部分を垣間見たような気が、伊縁はしていた。
「正興を問い詰めるか」
「秀将様! それはご辛抱を」
「お前は正興を庇うのか」
「そういうわけではございません。もし今回襲ったのが正興様だとしても、わたくしの記憶だけでは、確たる証拠とはならないでしょう。わたくしが何もなかったようにふるまえば、正興様は、もっと大きな悪計を仕掛けてくるに違いありません。その時こそ勝機かと」
「お前は何を言っている。今日よりもっと危険な目に合うんだぞ」
「今日は、本当にわたくしの不注意でございました。ですが、わたくしはいつでもこの身を盾にする覚悟は出来ております」
伊縁は、そっと秀将様から身体を離した。自分の役目を口にすることで、気持ちの整理もついた。
正興様の件は、自分が引き受ける。秀将様への風当たりを減らせるのなら容易いことだし、何より秀将様の役に立てるのが嬉しい。
秀将様には、奥方様を貰って次期領主となっていただき、道明沢の領民の生活を良くするという夢を叶えて欲しい。
自分は、秀将様にいただいたこのぬくもりだけで、天にも昇る心地なのだから。
そうやって、秀将様への初恋に終止符を打とうとした伊縁に、秀将様は怒ったような呆れたような目を向けた。
「だからお前は馬鹿だというんだ。勝手に話を終わらせるな」
「……え?」
「俺は、まつりごとの道具でも構わないと思っていたが、お前を失いかけて気が変わった。妻はめとらん」
一度しか言わないからよく聞け。秀将様は、ぶっきらぼうな口調で続けた。
「二度と俺のそばから離れるな。お前がいればそれで良い。分かったか」
「……」
まるで言葉が出てこない。怖いようにも思える口調と、言われた言葉の意味。伊縁は、頭がどうにかなってしまいそうになる。
口をぽかんと開けたまま、すっかり固まってしまった伊縁を前に、秀将様はもう一度大きく溜め息をついた。
「おい……おい、伊縁。聞いているのか」
「……あ、はい。秀将様」
「分かっているのか、本当に」
「……おそらく」
伊縁のはっきりしない物言いに、秀将様は「これなら分かるだろう」と今度は両腕を伸ばして、伊縁の細い身体をきつく抱いた。
「正興には、絶対に渡さん」
壊れそうなくらいの力で抱きしめられ、伊縁は、本当にもう壊れても良いとさえ思った。