山ひとつ向こうの領地に、年ごろの姫が住まわれているという。茶会は、姫の住む館より招かれた。秀将様との婚姻関係を持てれば領地の拡大も夢ではないと、元秀様は乗り気でおられるようだ。
茶会へ向かう秀将様に代わって、今日は伊縁が寺の集まりに出かけることになっている。食事もそこそこに慌ただしく支度をしていると、供の武士が迎えに来た。
「秋津殿、そろそろお出かけの時間です」
「お待たせしてすみません。自分のことを後回しにしていたので」
「いえいえ。今日は、秀将様がお茶会に出かけられるのですから、支度も大変だったでしょう」
「ええ。気が張りますね。あ、先に向かっていて下さい。すぐに追いかけます」
「承知しました」
分かっていた。分かっていたことだけれど。
秀将様が自分を頼りにして下さる喜びを知ってしまった今、手放しで喜べない自分がいる。秀将様はその姫を見初めて、妻にされるのだろうか。
「ほう、忙しくしているようではないか。首を斬られずに済んだようだな」
人目を避けて、裏庭から出かけようとした伊縁を阻んだのは、正興様だった。
「これは、正興様」
「伊縁も茶会へ同行するのか」
「いえ、父が参ります。わたくしでは荷が重いことですので」
「そうか」
正興様は、値踏みをするかのように、伊縁の外出着姿へ鋭い視線を送った。
「山でも歩くような恰好だな」
正興様の本意がどこにあるのか、分からない。本当に秀将様の座を狙っているとしたら、伊縁だって正興様の敵だ。
けれど正興様は、相変わらず冷たくも熱い視線を、伊縁に送ってくる。揶揄われているだけにしては、ねっとりと重たい視線だ。その視線の意味するところは、伊縁には見当もつかない。
「所用がありまして、このような恰好で失礼します。では」
上手くいなして下さる秀将様がいない今、ここは早々に立ち去るのが賢明だ。伊縁は正興様に頭を下げると、さりげなく脇を通り過ぎようとした。
「伊縁」
次の瞬間、伊縁の背中は、強い力で壁際に押し付けられていた。
「そういえば、お前は昔から秀将様を慕っていたな。好きなのか」
「……そのようなことなど、ある筈もありません」
「言葉に詰まったな。お前は分かりやすい」
伊縁の細肩に、正興様の指が食い込む。
「小姓になったのは、それが理由か」
「ち、違います」
「あれほど粗暴なふるまいをしていた秀将様が、お前には心を許しているそうじゃないか。さては閨を共にでもしたか。伊縁程度の色に溺れるとは、秀将様もたやすいものだ」
正興様の物言いは、伊縁を憤らせた。自分をどう言われようが、それは構わない。けれど、そのことで秀将様を貶めるのは許せない。
「正興様、秀将様はそのようなお人ではありません。もし、わたくしがそのような安易な企てを巡らせたところで、すぐに見破りお手打ちにされることでしょう。秀将様をそのようにおっしゃるのはやめていただきたい」
伊縁らしからぬ剣幕に正興様は一瞬鼻白み、伊縁を責めるように、肩を強く掴んで壁に打ち付けた。
「いっ……」
「そうか、お前は秀将を選ぶんだな。よく分かった」
秀将様を呼び捨てにする正興様の声は、まるで井戸の底から聞こえてくるようだ。伊縁はその声の冷たさにぞっとした。
「……正興様」
「もう行っていいぞ」
伊縁は、痛む肩を押さえながら正興様の腕から抜け出すと、出来るだけ早足でその場をあとにした。一度だけ振り返れば、壁に向かって立ち尽くしたままの正興様の背中が見えた。
伊縁が目を覚ましたのは、ずきずきとした痛みのせいだった。どうして身体が痛むのだろう、そしてどうして着物がこんなに汚れているのだろう。
寺から戻る山道で、何が起きたのだったか。伊縁は、必死に記憶を辿る。
そうだ。正興様に足止めされたあと、急いで寺へ向かい、話し合いを終えて、ひとりで山道を下っていたのだった。住職との話が長くなったので、供の武士は先に戻らせている。夕方の山道はひんやりとしていて、何となく不穏な空気を漂わせていたのは、あとから思えばの話だ。
背後からだれかに押されたのだと気が付いた時には、すでに伊縁の身体は蛇道から谷へと転げ落ちていた。木の根元や岩に頭をぶつけ、いつの間にか気を失ってしまったらしい。
伊縁は、真っ暗な場所に閉じ込められていた。腕は縄で縛られ、柱にくくりつけられている。口には布が咬ませられ、声を出すことを封じられていた。
(わたくしは、だれかに襲われ、どこかへ囚われている、ということか)
以前秀将様の命を狙ったのは、蓮司家の刺客だった。塁が及ぶことを恐れて、秀将様は自分の周りから人を遠ざけていたのだ。なのに、こんなところで伊縁が捕まってしまっては、秀将様の考えが台無しになってしまうではないか。
(わたくしが殺されてしまったら、秀将様は、きっとご自分のせいにする。秀将様の足手まといにはなりたくない、何とかして逃げないと)
微かに動く空気の流れを頼りに目を凝らしてみると、壁板の隙間から、外の気配がする。暗いと感じたのは、外も夜の闇だからだ。
ここへ捕らえられてから、どれくらいの時が経ったのだろう。秀将様は、無事に茶会から戻られているだろうか。父が同行しているし、何より元秀様がいらっしゃる。秀将様が刺客に襲われる心配はないだろう。狙われたのが伊縁だけなら、自力で脱出するのみだ。
伊縁は、縛られている手を懸命に動かした。けれど、縄は柱に固く結ばれていて、緩む気配がない。口の布はますます伊縁を締め付けてくる。動けば動くほど、蛇のような邪念が絡みついてくるような気がする。その邪念こそ、誰かの恨みであると伊縁は確信した。
恨まれるということの、なんと恐ろしいことか。これを、秀将様はずっと味わってこられたのか。伊縁は気が遠くなりそうになった。
その時、暗闇の中からぬっと腕が伸びて、伊縁の首を絞め上げた。
(しまった、人がいたのか)
武術の苦手な伊縁は、殺気というものが分からない。武士として致命的な弱点を、今まさに晒してしまっていた。
「う、ぐ、ううう……」
その腕は、片手で伊縁の首を締め上げながら、もう一方の手で、着物の合わせ目を探り出す。
(殺すつもりではないのか?)
口は布で塞がれている、首を絞められ、鼻から息も吸えない。少しの空気を取り入れるのに精一杯で、合わせ目に入り込んでくる蛇のような感触を防ぐ余裕がなかった。男の自分を辱めようとするこの手は、一体何を意味するのだ。
抗うのにも限界が来ていた。強い力が、伊縁の脚に割り込もうと身体を入れてくる。その圧力に、伊縁は憶えがあった。狙われる理由。恨まれる理由。もしかしてこの手の主は──。
「伊縁! どこだ、伊縁!」
外で、力強い声がした。伊縁の肌をまさぐろうとしていた手が、はっと力を緩める。その隙に、伊縁はありったけの力を込めて、両足で床を打ち鳴らした。
(秀将様! 秀将様!)
「伊縁!」
がたがたと音を立てて、扉が開かれようとしている。
「ちっ」
と小さく舌打ちが鳴って、伊縁にのし掛かろうとしていた気配は消えた。
先に帰らせた供の武士が、
「秋津殿!」
と掲げる灯りに浮かび上がったのは、秀将様の姿だった。