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洪水

 やはり自然の力を前に、人間は無力であると思い知らされる。雷を引き連れてやって来た大雨は三日降り続き、案の定暴れ川を怒らせた。

「秀将様、領地や農作物はどうなったでしょうか」

「住職によれば、川沿いにある民家の床下は水浸しだそうだ。いくつかの畑にも水が入ってしまった。収穫出来るものはすでに引き上げていたから、全滅にはなっていない」

「そうでございますか……」

 領民たちが毎年困っているのには胸を痛めてきたけれど、かと言って洪水がどのような被害をもたらすのかまでは、自分の目で確かめたことはなかった。

 武士の家柄だからと甘えていては、何も分からないままだ。伊縁は立ち上がった。

「秀将様。わたくしこれから、川の様子を見に行ってまいります」

「おい、まだ水は引いておらんぞ」

「だからこそ、どうすれば暴れ川を宥めることが出来るのか、分かると思うのです」

 伊縁は渋る秀将様を言いくるめると、供の武士を連れて、川へと向かった。

 雨はまだ止まず、川はごうごうと濁った水を勢い良く吐き出している。

「秋津殿。危険ですので、それ以上は近寄りませんように」

「分かりました」

 伊縁は、川沿いの畑が濁り水にすっかり浸かっている光景を目にした。あそこまで入ってしまっては、水を抜くのも土を入れ替えるのも一苦労だ。すべてやり直さなければいけないのは辛い。

 けれど、道明沢にはこれ以上開墾出来る土地はない。領地を広げたい元秀様の気持ちも分からないでもない。豊かで広い土地があれば、こんな思いをしなくてもいいのだ。

 暮らしの安定と、武力の強化。そのはざまで秀将様は悩まれている。わたくしの知識は、どこに生かせば良い? 伊縁は、暴れ川に心の中で問い掛けた。

(お前は、どうしてそんなに怒っているのだ。その怒りをどこへ向けようと言うのだ)

──どこへ向ける?

 そうだ。川の流れを、怒りの鎮められそうなところへ向けられないだろうか。川は、里山の急な谷間を削るように流れて来る。怒りの矛先が道明沢に集まるのは当然だ。

「すみません、上流に向かって少し歩きます」

 供の武士が必死で付いてくるのに目もくれず、伊縁は無我夢中で歩いた。たしか、この先に頑丈な岩肌がある筈だ。川がそこを通ることが出来れば、岩肌に川の流れを当てて、流れを弱めることが出来るのではないだろうか。

「あった、ここだ」

 暴れ川から少し離れたところに、別の峰へと繋がる岩山がある。その岩肌めがけて川の流れをずらせたら、道明沢に流れ込む勢いが弱まるに違いない。

 そう。道明家の厩で暴れた疾風号の時のように、怒りを無理やり止めるのではなく、落ち着かせるのだ。自然と人間とが共に生きられるように、少しだけずれていただく。伊縁はその考えを早く秀将様にお伝えするべく、びしょびしょに濡れるのも構わず、来た道を走るように引き返した。


「なるほど。川の勢いを止めるのではなく、逃がしてやるというわけか」

「はい。この勢いは、無理やり止めてはいけないということが、実際に見てよく分かりました」

「だが、川の流れをどうやってずらすのだ」

「書物にありました。石を積み上げて、堤防を作るのです」

「堤防?」

 たくさんの石を運んで、積み上げていく。しっかりと固めて、小山のごとき壁を作るのだ。

「時間と労力の掛かる作業だな」

「まずは、洪水の被害を減らす程度に築ければ良いと思います」

「いずれもっと長くて頑丈な堤防を作れたら、領地の農作は安定するだろうな」

「はい。領民は、季節問わず農作物を育てることが出来ます。米、豆、野菜……。いろいろな作物が作れるようになれば、不作の心配も減らせます」

 秀将様は、濡れねずみのような伊縁の姿を眺め、小さく笑った。

「まずは、湯を沸かして浴びて来い」

「ですが、風呂場は秀将様の……」

「良い。俺が使って良いと言うのだから、使え。着替えもだ。風邪を引かれては困るからな」

「あ、ありがとうございます……」


 その後、どうやって湯を浴び、部屋に戻ったかよく覚えていないくらい、伊縁は心ここにあらずだった。秀将様の着物は、伊縁の体格では帯で引き揚げてもまだ大きくて、腕も足もすっぽり包まれてしまった。

 その姿を見た秀将様が、くくっと目を逸らして笑った。

「伊縁には大きすぎたようだな」

「申し訳ございません……」

 細くて頼りない自分は、みっともない。いずれ秀将様の盾となって戦うのが小姓の一番のつとめだと言うのに、逞しい身体つきにもなれず背も伸びない。こんな自分で、秀将様の頼りになれるのだろうか。

「今、及び腰になっただろう」

「え?」

「顔色を見れば分かる。良いか伊縁。お前の頭の中を、もっと多くの書物で満たせ。お前は、俺の片腕なのだから」

「秀将様の片腕……」

「それぞれが得意なところを活かせば、道明沢をもっと良く出来る。お前は、お前の得意なやり方で、役目をまっとうすれば良いのだ」

 そうか、あの時も秀将様はそういう気持ちだったのだ。伊縁は思い出した。

 武術を理屈で覚えれば良いと導いて下さったあの時、「俺には許されないことだ」と秀将様は少し淋しそうにおっしゃった。たぶんあの頃から、みんなが得意なことを生かせる暮らしを思い描いていたのだろう。

 そんな暮らしが出来たら、どんなに良いだろうと伊縁は思った。だれもが暮らしやすい道明沢になったら、どんなに素敵だろう。そのために自分は、秀将様の片腕となる。

「一生懸命、つとめます」

 伊縁は初めて、真っ向から秀将様の目を見つめた。背の高さが違うから見上げたというのが正確なところだけれど、決意のこもった伊縁の視線を、秀将様はしっかりと受け止めてくれた。

「頼んだぞ」


 堤防を作るという伊縁の案には、寺に集まっただれもが驚いたけれど、住職の後押しもあって、すぐにでも取り掛かることになった。

 秀将様は身分や年齢などにかかわらず、広く意見を求められる。それを取りまとめるのが伊縁、そんな風に役割も定まってきた。

「秀将様と伊縁様に、相談してみよう」

 新しい空気が、また新しい案を生む。石切りをなりわいとする者、伊縁とともに記録の出来る者、測量に長けている者など、寺での集まりは、少しずつその人数を増やしていった。


 伊縁と住職が堤防作りの差配をしている間に、秀将様は館の返事を取り付けようと奔走していた。これが一番難しく、危険な役目だ。

 矢面に立たされるであろう秀将様は、そうでなくても側室の子という出自のせいで、命を狙われる立場だ。堤防を作るなどという目立つことをすれば、ますます父の元秀様から疎んじられるに違いない。

「それでもやらなければいけない。それが俺のつとめだ」

 そう言う秀将様に、伊縁の心は切なくなる。けれど、秀将様がやると言ったことに従うのみだ。


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