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始動

 蝉の鳴く声が、里山のあちこちで木の葉を揺らす季節になった。朝からじっとりと汗ばむような陽気を感じるたびに、早く秋が来ないかな、と伊縁は思う。

 特に今年の夏は、去年よりやって来るのが早かった。こんな年は気を付けなくてはいけない。暴れ川は、夏が長ければ長いほどその力を膨らませ、道明沢の地を襲ってくるのだ。


「伊縁」

「はい、秀将様」

「清書を頼む。良き文言を添えろ。仕上がり次第、すぐに出かける」

「かしこまりました」

 秀将様から命じられる仕事は、少しずつ複雑で重要なものになっていた。伊縁の仕事ぶりを認め、評価してくれているのだと思うと、夏の暑さなんかに負けていられないぞとやる気もみなぎる。我ながら単純なものだ、と伊縁は苦笑した。

 頼まれた下書きの字は、相変わらず荒っぽい。ふふ、秀将様らしい、と伊縁は顔を綻ばせる。

 けれど、次第にその顔から笑みは消えていった。秀将様がこのところお出かけになっていた理由は、これに違いない。夏が来てからというもの、秀将様はひとりで出かけることが度々ある。

 伊縁の手の中にあったのは、とある訴えへの、秀将様が出した返事だった。


「失礼いたします。秀将様、清書が仕上がりました」

「そこへ置いてくれ」

「はい」

 秀将様の部屋にある文机は、伊縁だけが触れることを許されている。伊縁は、書き上げた文をそっと置いた。

 訴えは、道明沢の領民から出されたものだった。

 毎年洪水で農作物が台無しになってしまう。もともと道明沢は開墾しづらい山あいの小さな土地。元秀様はそれを分かっている筈なのに、領民の声に耳を傾けず、領地を広げることばかり。今ある土地のことも考えてはもらえないか、そんなことが書かれてあった。

 それに対する秀将様の返事には、強い意志が示されていた。

「承知した。この件について、秀将が責任を持って領主に伝える」

 伊縁はそれを分かりやすい言葉に置き換えて、返事を書き上げた。これから秀将様と自分の身に降りかかる運命が、少しずつ見えてくるような気がした。


 秀将様は、道明沢の領民のために、危険を顧みず立ち上がろうとしている。その強い意志を、伊縁は文面から読み取った。そして同時に、伊縁の意志に変わりはないか、秀将様から問われているのだと感じた。

──お前はどうだ。お前が学んできた知識を役立てるのは、いつだ。

 もちろん、伊縁の選択肢はひとつしかない。秀将様がそれを必要とする時だ。

 伊縁の書き上げた清書に目を通すと、秀将様は口を開いた。

「子を子とも思わないような父だが、俺は父を恨んだことはない。正式な嫡男が生まれて俺がお払い箱になったとしても、だ。それが俺の役目だと思って生きてきた。俺ひとりがどうこうなる分には、それでも構わないと。だがな、誰に褒められるわけでもないのに、道明沢のためを思って年中書物に埋もれているような奴の姿を見て、俺のやるべきことが見えてきた」

「あ、あの、それって……」

「お前だ、伊縁」

「わたくし……」

「父は、領地を拡大することだけを考えている。だが、まず何より優先すべきは、道明沢の領民たちのことではないかと、俺は思う」

「秀将様……」

「お前が蓄えてきた知識を、俺のために、この道明沢のために使えるか。命の危険を冒しても」

「はい、もちろんでございます」

「よし。今日から、お前も俺と共に来い」

「はい」

 秀将様の言葉に、伊縁は大きく頷いた。秀将様の役に立てるのなら、どこへだって行こう。


 秀将様の外出に、伊縁も同行することになった。懐かしい山道を、秀将様はぐんぐん進んでいく。

「秀将様。もしや、この道は」

「寺子たちは何と呼んでいたか、そうだ、蛇道と言っていたな」

「そうでございます、よくご存じで」

 明日が来ることのないまま、それ以上話せずに終わってしまった思い出。その思い出の続きを、今またこうしてふたりで辿ることが出来るなんて。

 緑薫る山道を、秀将様の背中を追いかけながら、つい伊縁はそんな甘酸っぱい思いに駆られてしまう。

「寺子たちと話がしてみたかったが、上手くはいかなかった」

「わたくしもあの時、秀将様ともっとお話がしたかったです」

「そうだったのか? てっきり俺に怯えているのかと思っていたぞ」

「も、申し訳ございません」

「その口癖も、相変わらずだな」

「あ……」

 伊縁の顔は火照った。夏の暑さのせいではないことは、自分でも分かっている。どんなに抑えようとしても抑えきれない思いというのは、厄介なものだ。

 そんな思いを抱える伊縁をよそに、秀将様はなおも山道を進んでいく。伊縁は自分を戒めるように大きく首を振り、山道を進むことだけに集中した。


 久しぶりに来る寺は随分とみすぼらしくなっていて、伊縁は驚いた。小さいとはいえ道明家の菩提寺なのに、こんな扱いで良いのだろうか。

「父は、もっと大きな寺をふもとに普請するつもりでいる。都から僧を招いてな。大きな寺があれば、道明家の力を誇示出来る。近領との差を見せつけるというわけだ」

「それでは、この寺はどうなるのですか?」

「近いうちに潰される。だから俺はこの場所を選んだ。話し合いの場にはうってつけだろう」

 ささくれだった畳の間に集まっていたのは、伊縁に書物を与えてくれた住職、村の長、そして道明沢武士の中でも下位にいる者数名。彼らは、領民たちの苦労を近くで見ているだけに、洪水に対する思いもひとしおなのだろう。

「今日は、役に立つ者を連れてきた。こやつの頭の中には、道明沢の地理がすべて入っている。解決の糸口が見つかるかもしれん」

 秀将様は、何度か元秀様に申し入れを試みてはいるが、回答を待っているだけの猶予はない。我々が打てる手は、早急に打つべきだと熱い口調で語った。

(こんなに熱い秀将様は、初めて見る)

 伊縁の心は浮き立った。秀将様から、役に立つ者だと紹介された。自分は、それに応えなくてはならない。


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