「俺にとっては、書物など何の救いにもならなかった」
秀将様の吐き出した言葉は、温まった伊縁の心にさっと冷たい風を吹かせた。刺客に命を狙われた秀将様は、寺へ通うことすらままならなくなったことを伊縁は思い出す。
「書物を読む暇があれば、人を斬る術を身につけろと、昔からずっと言われていた」
「秀将様」
「お前が書物に夢中になっているのを見て、そんなに面白いものなのかと気にはなっていたが、俺には許されないことだった」
「……」
「何が面白いのだ。お前にとってその書物は何だ」
伊縁が初めて聞く、秀将様の本心だった。常に自分を偽って生きなければいけない。そんな生き方を強いられてきた秀将様の心の声なのだと、伊縁は思った。
「わたくしは、小さい頃から道明沢の洪水を何とか出来ないかと思い、ずっとこの書物と向き合ってまいりました。一言一句、頭の中に入っているくらいです。けれど、今もまだ答えは見つからずにおります」
「当然だ。書物を読んだところでどうすることも出来まい」
「秀将様にお仕えするようになって思ったのです。答えは、きっとわたくし自身の中にあるのだと」
「どういうことだ」
「わたくしが書物から得た知識を、どうしたいかだと。それを秀将様から教わったのです」
「俺から?」
「秀将様はあの頃、武術が苦手ならば、わたくしの得意な学問のように理屈で覚えれば良いと教えて下さいました」
「そうだったか」
「はい。先日の御前試合の時にいただいた書き付けも、まるで温かい湯のように、すっとわたくしの頭の中へ入ってきました。秀将様は、いつでもわたくしのやり易いように導いて下さいました」
そう、秀将様の言葉はそっけないけれど、伊縁の心をいつも温めてくれた。小姓は要らぬと拒否されてからも、その温かさを信じていて間違いはなかった。やはり秀将様の心の奥は変わりなかったのだ。
「俺は、そんな風に言われるような人間ではない」
「そんなことおっしゃらないで下さい。秀将様は本当にわたくしの大切なお方なのです!」
思わず大きな声を出してしまった。とんでもないことを口走ってしまったと、言い終わってから伊縁は気付いた。みるみるうちに顔が火照っていくのが分かる。何を言っているんだろう、これではまったく、思いの丈を告白しているようではないか。
「……ふ」
ほら、秀将様も呆れているに違いない。
「相変わらず面白い奴だな」
「も、申し訳ございません……」
「俺の周りは、魑魅魍魎だらけだぞ。それでも俺の小姓を続けるつもりか」
「はい。わたくしは何があっても、秀将様に付いてまいります」
ふ、は。とうとう秀将様が笑い出す。伊縁は自分が口にした言葉の大きさに気恥ずかしくなり、俯いてしまった。
「お前が心底物好きな奴だというのは分かった。だが、ここは裏切り者が身内にいるような家だ。お前もお前の父も、俺の近くにいれば、いつ何時狙われるかもしれん。だから、極力人は遠ざけてきた」
「……秀将様、だからわたくしを……」
「道明家の内輪揉めは、道明の者だけで十分だ」
「わたくしどもに、そんなお心遣いなど無用ですのに……」
「ほら見ろ。特に秋津家の者は忠義に厚いからな。言えばそうなると思ったのだ」
そういうことだったのか。
伊縁は、秀将様のふるまいに対する自分の思い違いを悔いた。秀将様は、決して自分の辛さをぶつけていたのではない。道明家の内輪揉めをこれ以上広げないように、という考えがあってのことだったのだ。
秀将様の聡明さを目の当たりにして、伊縁は改めて強く願った。秀将様のために、自分が得てきた知識を活かしたい。もっと秀将様の役に立ちたい。
「……覚悟はあるんだな」
「はい」
「このことは他言無用だ、いいな」
「はい」
「武術も今以上に励めよ。お前の身を守るためだ」
「はい」
秀将様が去ったあと、しばらく座ったまま呆けていた伊縁の目に、少しずつ朝の空が広がっていく。いつもと変わらない一日だけれど、伊縁には新しい始まりのように感じた。
「秋津殿、それでは一瞬で敵にやられてしまいますぞ」
「もっと構えを低く、そうです」
「な、なるほど……、うっ」
「なんと。その程度で足を捻るとは」
「お恥ずかしい……」
秋津殿らしいな、ははは、そんな声の中心で伊縁は照れながら頭を掻く。
これが自分だ。武術が苦手でも、自分からそれをさらけ出していくことが嫌ではなくなってきた。学問が得意という自信が、伊縁をそう思わせてくれるようになったのだ。伊縁の得意なことを認めてくれた人がいるおかげだ。
あれから秀将様は、伊縁に直接仕事を命じてくれるようになった。驚いたのは伊縁の父だ。自分の息子がきちんとつとめを果たせるようになっている。
「何があったのだ」
そう問う父に、伊縁はにこりと笑って、
「秀将様のお考えのままに」
とだけ答えた。だれにも他言はしないと誓った。これは秀将様と自分だけの秘密だ。
秀将様を持ち上げれば、同類とみなされて命を狙われる恐れがある。伊縁自身も、必要以上に秀将様へ近寄るなと釘を刺されていた。
道明家のために無益な血を流したくない、近領に知られることも得策ではない。道明沢の行く末を見据えたその考えに、伊縁は感服するばかりだった。
(いや、感服してばかりでは駄目なのだ。そんな秀将様の信頼に応えられるようにならないと)
「随分と楽しそうなじゃれ合いだったな、伊縁」
武術の稽古を終えた伊縁の前に、いつの間にか人の姿があった。笑ってはいるけれど、その視線は伊縁を冷たく射貫いている。
「正興様」
「御前試合で勝ったからか、自分にも力が付いてきたなどと思っているようだな」
「そんな、めっそうもない」
「伊縁は昔から、俺の手助けがないと山道も歩けないようなひ弱な子どもだったが、そんなことはとっくに忘れたか」
「そんな、忘れてなど。正興様には本当に良くしていただいたのを今でも覚えております」
「そうか」
正興様の目は、冷たさを増した。
「秀将様とお前の間に、何か変わったことがあるようだが、俺の気のせいか」
伊縁はその時、正興様を怖いと思った。昔のようにまた笑いあえるなどというのは、甘い考えだったのかもしれない。
正興様は蓮司家の跡取り。今は道明家に仕える家柄だけれど、もしかして正興様は、秀将様の座を狙っている?
伊縁は答えに窮した。こんな時、どう言えば切り抜けられるだろう。
「何も変わったことはない」
言葉に詰まった伊縁の代わりに答えたのは、御用から戻られた秀将様だった。秀将様の声には隙がなく、反論を許さない説得力がある。伊縁はその場にかしこまりながら、頼もしいその声に大きな安心感を覚えた。
「これは秀将様。聞いておられたのですか」
「耳に入った。こやつには雑用をやらせているだけだ。変わったことは何もない」
「今まで小姓すら取ろうとしなかった秀将様が、伊縁にはお目を掛けているように見えましたので」
「俺の世話役がこやつの父だからだ。それだけの話だ、正興」
「……はい」
「無駄話は終わりだ」
今までの粗暴なだけのふるまいとは違う厳とした空気が、秀将様の周りに漂っている。正興様もそれ以上言うことはせずにその場へかしこまった。
伊縁は大股で歩く秀将様のあとを少し離れて追いかけた。大きな背中だ。
そういえば昔、寺からの帰り道に同じことを思った。蛇のように曲がりくねった道も、秀将様の前では恐れ多くて真っすぐに伸びてしまうような、そんな力を秀将様の背中から感じたことを。
あの大きな背中に背負った、いろんな苦しみや悲しみを少しでも分けてもらいたい。出来ることなら一緒に背負っていきたい。だって、それは小姓として当然のつとめだし、何より秀将様へ恩返しをしたいと思っているから。
いや、果たして、本当にそれだけなのだろうか。伊縁は、ずっと自分自身に言い聞かせていたその気持ちが何なのか、聞こえないふりをしていた自分の本心はどこにあるのか、向き合う時が来たことを悟った。
(おつとめや恩返しなどではない。わたくしの心が、秀将様のおそばにいたいと言っているのだ)
手ぬぐいを渡してもらった寺での出会いから、ずっと秀将様のことを思うたびに、胸の中で鈴が鳴る。伊縁は、その鈴の音が一体何というものなのか、ようやくひとつの答えに行き当たった。
(恋だ。わたくしの初恋は秀将様で、ずっと秀将様に恋をしていたのだ)
行き当たってみれば、自分の心がすっと晴れやかになるのを、伊縁は実感した。
秀将様に恋をしているなどと口に出せるような身分ではないし、口に出すつもりもないけれど、それでも伊縁は、自分の気持ちに名前が付いたことが嬉しかった。
秀将様はいつか、近領から奥方様をめとるだろう。それがこの戦乱の世で領地を守っていくひとつの手段だ。自分は、その婚姻が上手くいくようお支えしていく。自分の父のように、いつか秀将様のお子様の世話が出来たら本望だ。
秀将様への恋心は自分ひとりの胸に納めて、そっと噛みしめていよう。
伊縁は、何をしているというように振り向いた秀将様の元へ急いだ。