御前試合が終わっても、試し斬りどころかお咎めもなかった。出仕を禁じられることもなく、それどころか、毎日大忙しの伊縁だ。
積まれた書物をどのように片付けたら良いだろう、墨が滲んでしまった何とかならないか、筆や硯の良い手入れ方法を教えてほしい。
今までそれほど交流のなかったほかの小姓や使用人たちから、そんな相談を持ち掛けられるようになって、伊縁は嬉しい悲鳴を上げていた。
非力ながらも健闘した伊縁を、武士のはしくれとして認めてくれたということか。
些細なことではあった。けれど、秀将様の目につかないよう、ひっそりと息をするように過ごしていた伊縁は、こんな風にだれかの役に立てるということが嬉しかった。
同じ建物にいながら、今も秀将様の姿を目にすることは叶わない。それはいつしか伊縁の中で、秀将様に会えない淋しさとなって胸に募っていった。
秀将様のために働きたい。秀将様に心を許してもらえるようになりたい。秀将様の笑う顔をもう一度見たい。そんな日を夢見ている自分がいる。
(駄目だ。そんな大それたことをわたくしが思っているなどと、間違っても態度に出さないようにしなければ)
今まで感じたことのないほど気持ちが揺れている。胸の奥にしまい込んでいた鈴が、まるでわたしを忘れないでとでも言うかのようにちりんと鳴った。
ある日、伊縁の元にいつものおつとめに混じって清書仕事が舞い込んできた。隣領から招かれた茶会への返信。署名はまだないけれど、そっけなさが残る元の文を見て、秀将様が書かれたものだと伊縁はぴんと来た。なるほど、返信として失礼のないように体裁を整えろということか。緊張で、書状を持つ手が震えてしまう。
(……あれ? この字、どこかで……)
優しさのない字だ。むしろどこか荒っぽくごつごつとした筆致。伊縁の心臓が早鐘のように打ち出した。この字を見たことがある。わたくしは、この字に助けられた……そう、御前試合で!
伊縁は小姓部屋へ飛び込んだ。まさか、まさか。震えの止まらない手で行李の蓋を開ける。
丁寧に大切にしまってある三枚の書き付け。だれもが負けると思っていた伊縁を、二戦勝たせてくれたお守り。三戦目、伊縁に行ってこいと背中を押してくれた荒々しい字。
秀将様からと思われる清書前の書状と、三枚目の書き付けを見比べてみる。
(秀将様……だったのか? わたくしに書き付けを送って下さったのは)
書状と書き付けを胸に押し当ててみても、返事が返ってくることはない。聞こえるのは、うるさく耳に響く心臓の鼓動だけだ。
伊縁の仕上げた返信は、控え室の文箱に入れられた。いつもなら、秀将様からの御用はこうして顔を合わせることなくやりとりされる。すぐにその場を退散するべきだとは分かっていた。
(だけど、わたくしは秀将様のお心が知りたい。お願いします、少しのわがままをお許し下さい)
伊縁は祈るような気持ちで目をつむり、部屋の隅で秀将様が来るのを待った。
「なぜここにいる」
頭上から、響くような低音がした。思わず伊縁は身を固くし、頭を下げる。
「俺の前から立ち去れと言ったことを忘れたか」
緊張の一瞬。伊縁は身体を僅かに起こすと、意を決して口を開いた。
「ご無礼、なにとぞお許し下さいませ。お預かりしました書状はとても大事なものですので、どうしてもこの場を離れることが出来ませんでした」
「清書が出来ているなら問題はない。去れ」
「秀将様……っ」
見上げた先に秀将様の冷たい表情があって、伊縁は思わず震える。けれど、どうしても確かめたい。秀将様があの恩人だったのか。
「あ、あの。秀将様が、あの書き付けを下さったのですか?」
時間にしたらほんの僅かだったのだと思う。けれど、伊縁にとっては永遠とも思える間が空いて、秀将様は短く告げた。
「仮にも俺の小姓を名乗る者が、昔のように無様なままでは困るからだ」
平伏する伊縁の耳に、襖の閉まる音が聞こえる。伊縁は畳に頭をこすりつけたまま、鼻の奥がつんとするのを感じていた。
(秀将様が、わたくしを認めて下さった……!)
仮は付くけれど、秀将様付きの小姓だと言って下さった。伊縁の心は、喜びで弾けそうになった。
そして何より嬉しかったのは、無様な負け方をした昔の伊縁を覚えていて下さったということだ。言い方は冷たかったけれど、秀将様から優しさがすべて失われたわけではないと、伊縁は確信した。
(優しい秀将様が、きっといらっしゃる。心の奥は、きっとあの頃の秀将様とお変わりないのだ)
伊縁は顔を上げて、膝の上でこぶしをぎゅっと握った。もっと、秀将様に認めてもらえるようにならなければ。
伊縁はまず、苦手な武術を一から学び直すことにした。
三戦目で負けた年下の小姓に頼むと、快く相手を引き受けてくれた。代わりに彼の苦手な書物の読み方を教えると、ここ数日で噂が他の小姓仲間にも広まり、お互いの得意なことを教えあう学び場のようになっている。
仲間とともに鍛錬することで、知識の中だけだった武術が少しずつ身体に馴染み、無様だった打ち込み姿も、ようやく様になってきた。
仮が付いてはいるものの、秀将様の御用も少しずつ増えてきたように思う。決して伊縁に宛てての御用ではないのだろうけれど、自分の存在を許してくれたような気がして、おつとめのひとつひとつにも特別な思いがこもった。
この気持ちは秀将様への恩返しに他ならないと、伊縁は信じて疑わない。それ以外にどのような気持ちを秀将様に持つというのだろう。
ある朝のこと。だれよりも早く出仕した伊縁は、ここ最近忙しくて手を付けていなかった書物を取り出した。昼間はおつとめと武術の稽古。夜はくたくたで、書物を開く気力もない。このままでは学問が取り柄だなんて言えなくなってしまう。
使える時間といえば、早朝くらいだ。少しの時間でも自分を高めなくては。秀将様の役に立てるような自分にならなくては。
書見台に置いたのは、伊縁の原点とも言える書物だ。そらんじることが出来るくらい読み込んではきたけれど、まだ半分も理解出来ていない。伊縁は道明沢の地の理について知識を深めるため、書物を開いた。
開けたままの障子の先に、大きな人影が立つのを伊縁は感じた。
「朝っぱらから書物など、物好きな奴だ」
書物から目を上げた伊縁が見たのは、道明沢の朝明けに迎えられた、秀将様の姿だった。
伊縁はその姿を見て、改めて思った。秀将様こそが次の道明沢を背負って立つ人だ。どんなことがあっても、自分が付いていくべき人だ。そう感じた瞬間、伊縁の胸には、苦しくなるほど激しい鈴の音が鳴り響いた。
今の気持ちを言い表せる言葉が見つからない。伊縁は、はくはくと小さく息を吐くので精一杯だった。
「ひ、ひで、まささま。お、おはよう、ございま、す……」
「相変わらずだな、伊縁」
秀将様が、自分のことを伊縁と呼んで下さった。その表情は影になって見えづらいけれど、伊縁の胸には、昔、寺で感じたのと同じ温かさが広がった。