どこから秀将様の耳に暴れ馬の一件が入ったのかは分からない。伊縁自身、この程度で秀将様に振り向いてもらえるなどとは、これっぽっちも思っていない。けれど、ほんの少しだけ報われたような気がして、伊縁の心は温かくなった。
粗暴なふるまいと父は言ったけれど、いつまた命を狙われるか分からない中、周りの者が信用出来ないのは当然のことだ。
毎日陰ながら秀将様の様子を伺ううちに、伊縁は気付いていた。秀将様が、そのふるまいの裏側で心をすり減らしていることに。
小姓など要らないと言われようが、心が折れそうになろうが、そんなすり減った秀将様の心を少しでも埋められるよう、出来ることを精一杯果たそう。秀将様に励まされた自分がお返し出来るのは、これくらいしかないのだから。
とは言っても、伊縁が秀将様の視界にすら入れてもらえない日々は相変わらずで、おそらく秀将様の気分を損ねた内容だったのだろう、くしゃくしゃに丸めて投げ捨てられた書状の後始末をしながら、つい小さく溜め息を漏らしてしまう。
「伊縁、気が抜けているな。秀将様に見られたら、あっという間に刀の試し斬りだぞ」
「ま、正興様!」
伊縁が裏庭の隅で紙を燃やしていると、笑いながら正興様がやって来た。正興様は柵に寄り掛かって腕組みをすると、おもむろに口を開いた。
「秀将様は、武術の出来ない者など認めぬとおっしゃったのだろう?」
「な、なぜそれを?」
「俺が館つとめをする際にそう言われた。だから俺は、こう申し上げたのだ。館の者すべてで、[[rb:御前試合 > ごぜんじあい]]をしたらどうかと」
「御前試合?」
「元秀様もぜひご覧になりたいとのことでな。いつ始まってもおかしくない戦へ向けて、武士たちの士気が上がって良いと」
「戦……」
それは伊縁の嫌いな言葉だった。争いごとなどしたくはない。道明沢が貧しくても、水害を乗り越えてつつましく暮らしていければそれで良い。けれど、時代が刻々と争いごとに呑まれていることくらい伊縁にも分かってはいた。武術が苦手などと言っていられないことも。
「御前試合は、七日後だ」
「えっ? 七日後?」
「小姓も小姓同士で試合をするのだぞ。いくら秀将様に毛嫌いされていようが、伊縁も出るのだ」
そういえば、初めて出仕する時に父から言われていたのを伊縁はようやく思い出した。怒涛のような毎日を送るのに精一杯で、御前試合のことなどすっかり頭から抜けていたのだ。
「名ばかりとはいえ、秀将様付きの小姓ならば、それなりの成果を見せなければならないな」
「……」
「怖気づいたか」
正興様は、腕組みをゆっくり解いて伊縁の方へ近付いた。手を伸ばして伊縁の顎を軽く掴み、くいと持ち上げる。
「回避したければ、方法はなくもないが」
再会してからの正興様は、どこか昔と違うように伊縁には思えた。昔と同じように揶揄っているだけかと思ったけれど、升いっぱいに水を入れて、もう少しでふちから零れてしまいそうに膨らんだ時のような、そんな危うさを感じるのは気のせいだろうか。
正興様の手に力がこもったように感じられて、伊縁はその手から逃れるように後ろへ足を引く。正興様は、伊縁の様子に口の端を小さく歪めた。
「ほう、方法を聞かなくても良いのか?」
「お、お気遣いありがとうございます。自力で頑張ってみます」
「お前の力など、赤子の手を捻るようなものだがな」
「や、やってみなくては分かりませんので」
「口だけは一人前か」
まあ良い。正興様はそれ以上伊縁に近付くこともなく、伊縁は少しほっとして緊張を解いた。
「秀将様を怒らせて斬られないよう、荷物をまとめて逃げ出す準備をしておくんだな」
正興様の言い残した言葉はまるでふいに浴びせられた冷水のようで、伊縁はぞくりと背筋を震わせた。冗談では終わらないかもしれない、何とかしなければ。
道明家の小姓は伊縁を含めて数人おり、一番年下の者で十四歳だと言う。伊縁はそっと様子を見に行ってみた。力仕事を任されている彼は伊縁よりも体格が良く、次の戦で早くも初陣を期待されている逸材らしい。
あれでは伊縁が負けるのは必至だ。冗談ではなく、秀将様の怒りを買って斬られてしまうかもしれない。伊縁は、重苦しい気持ちに襲われた。
それから毎日、おつとめの合間を縫っては武術の稽古に取り組んでみたものの、あの年下の小姓に太刀打ち出来るとは到底思えなかった。他の小姓たちも、きっと伊縁よりは武術の心得がある筈だ。
(どうしよう。これでは秀将様の顔に泥を塗ることになってしまう)
嫌いだから苦手だからと言っても逃げられるものではないのだと今になって身にしみたところで、御前試合まではあと数日しかない。その時ふと伊縁は思い出した。三年前、秀将様に言われた言葉を。
「お前の得意な学問のように、武術も理屈で覚えれば良いのだ」
そうだ。秀将様はさりげなく伊縁の得意なやり方を助言して下さったのだった。伊縁は小姓部屋に置いてある行李の中から、しばらく手を付けていなかった武術の指南書を取り出した。
これを、もう一度読み直してみよう。自分の得意な方法なら、少しは苦手な気持ちが克服出来るかもしれない。伊縁は頭に叩き込む勢いで、書物をひたすらめくった。
(やはり勝てる気がしない……)
御前試合当日。知識だけではどうにもならない相手の気迫に、伊縁の心は打ちのめされていた。
伊縁たち小姓組は前座のようなもので、実際のところ勝った負けたでどうこうなるものではないけれど、秀将様の小姓に武術の心得がまるでないと分かれば、それこそ秀将様を狙う者たちの思うつぼだ。ずっしりとのしかかる責任感に、伊縁の細い肩は今にも折れてしまいそうだった。
重い気持ちで小姓部屋の障子を開けたその時、小さな紙切れがはらりと伊縁の足元へ落ちた。
(何だろう、何かの書き付け?)
拾い上げた紙切れには、一言、「左右の違い」とだけ書いてある。左右が違うのは当然のことだ、この書き付けは一体何を意味しているのだろう? 伊縁は首を傾げつつも、とりあえず懐に納めた。誰かが間違えて入れたのかもしれない。あとで、同じ胴衣を着けている小姓に聞けば良いだろう。
今の伊縁に、試合以外のことを考えるゆとりなどない。件の小姓の出番は最後だ。彼にせめて一手、技を掛けたい。けれどそこへたどり着くまで、まずは二人を倒さなくていけないのだ。
勝つあてはまるでないまま、伊縁は一人目と相対した。
ようい、はじめ。昔、この合図を聞いた途端に投げ飛ばされたのを思い出す。伊縁は胴着を掴まれないよう、相手との距離を取った。けれど、逃げてばかりでは結局昔と同じこと。どこかで勝負をしないと。
相手の動きをよく見る。指南書に書いてあったことを思い出しながら、伊縁はともすれば恐怖でつむってしまいそうな目を必死に凝らした。すると、相手の動きの中で時々違和感が生じることに気付いた。
(何だろう、この違和感は。左と右で、何かが違うような──)
はっ、と伊縁は懐にしまったものを思い出した。あの書き付け。左右の違い。
伊縁は、もう一度相手の動きをよく観察した。左側に重心が片寄ると、右手から技を繰り出す回数が減っている。これは、相手の弱点といっていいのではないか。あの書き付けはもしかして、伊縁にそれを教えてくれた──?
いや、今それに思いを巡らせている暇はない。非力な伊縁にとって、そこだけが勝機だ。相手が重心を左に掛けた瞬間、伊縁は隙だらけになった右手を掴んだ。指南書の通り、手首を支点にして後ろ手に捻る。力がなくても相手の動きを封じ込めることが可能だ。あとは身体全体を使って押さえ込めば、捩じられた肘の痛みから逃れようと相手の体勢が崩れる。すかさず、伊縁はありったけの体重を掛けて、相手を土の上へと倒した。
勝者、秋津伊縁。伊縁の耳に、聞きなれない言葉が届く。初めて武術で勝った。背中に土の付いた相手は、いつもならば伊縁の姿だ。悔しそうな相手に手を差し伸べて立ち上がらせると、懐の書き付けを胴衣の上からそっと押さえた。
(だれかは分からないけれど、わたくしに味方してくれる方がいる)
書き付けの本意は不明だけれど、顔も分からない恩人に、伊縁は心の中で手を合わせた。
二人目と相対する直前、部屋へ戻った伊縁のもとへまた一枚の書き付けが現れた。「息を吐く時」。まるで謎掛けのようだけれど、きっとこれも助言に違いない。伊縁は大事に懐へしまった。
試合が始まり、伊縁は機会を伺いながら相手の息遣いに注意を払う。やはりそうだ。突破出来るところを見つけた。息を吐いた瞬間、相手の構えが緩むのが分かる。今だ。伊縁は全力で相手を突き倒した。
細くて頼りなげな伊縁が二人目にも勝ったことに、周りで見物している者たちからざわめきが起こる。驚いた様子で見つめる正興様の姿もあった。
けれど、見てほしいのはあなたたちじゃない。伊縁は秀将様の姿を探した。庭に面した館の濡れ縁には、元秀様の姿はあるけれど、秀将様はいない。伊縁の心は小さく痛む。
いや駄目だ、そんなことでは。秀将様が見ていようがいまいが関係ない。伊縁は顔の汗を拭こうと手ぬぐいを取り上げた。かさりと音がして、三枚目の書き付けが手元へ舞い落ちる。
そこに挟まっていたのは、今までの二枚よりも荒々しい筆致で「捨て身でいけ」とだけ書かれた言葉だった。
見も知らぬ恩人からの最後の言葉。最後は捨て身でぶつかっていけ。それしか方法はない。頑張れ。ぶっきらぼうで荒っぽいながらも、伊縁を励ましてくれている。そんな風にも受け取れる書き付けだ。
(そうですよね? 諦めるなとおっしゃっているんですよね?)
伊縁は顔の分からない恩人に向かって呼び掛けた。傷つくことも傷つけることも嫌いだった伊縁が、変わろうとしていた。
結果は惨敗。伊縁の身体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。小姓同士による組み討ちは終わり、見物人もあっという間に散っていく。
地面に大の字を描いた伊縁の目に、青空が映った。身体は痛むし、秀将様はきっとこのことを聞いたらお怒りになるだろう。もう自分の居場所はここにない。秀将様に小姓として認められたいという夢は、叶わずに終わる。
けれど、伊縁は不思議と心穏やかだった。こんな自分でも、やれば出来るんだ。今まで感じたことのない自信は、伊縁の心を一回り大きく強くしてくれたような気がした。
だれかが自分を見守っていてくれる、そのことがどれだけ自分を励ましてくれたか。あの三枚の書き付けはずっと大切に持っていよう。伊縁は青空にそう誓った。