秀将様の目に触れないよう十分に気を付けながら、着替えや持ち物の手入れを行う。秀将様の癖や習慣を陰からそっと見ているうちに、どの持ち物をどのように用意すれば良いか、段々と分かるようになってきた。
滞りなく秀将様が用を済まされれば、陰でほっと胸を撫で下ろす。武術はまるっきり役立たずの伊縁だけれど、目立たぬところで細やかな仕事をするのは、向いているのかもしれない。
あの頃のような笑顔を見せてくれることも、優しい言葉を掛けてくれることもないけれど、秀将様の暮らしを陰ながら支えることが出来たなら。そんな思いで自分を奮い立たせながら出仕するうちに、桜の木は、緑の葉を生い茂らせるようになっていた。
(暗殺未遂などということがなければ、秀将様がこんな風になることもなかったに違いない……)
母にあたる人から命を狙われ、頼みの父には跡取りの道具としか見てもらえない。そんな秀将様は、すべての物言いやふるまいに鋭い敵意をみなぎらせている。もし伊縁が近付こうものなら、それだけで斬られてしまいそうなくらい、ひりひりとした敵意だ。
けれど、それはもしかしたら、秀将様が大切な何かを守ろうとしている裏返しなのかもしれないと、伊縁は感じた。秀将様の声にならない悲痛な思いがそこにあるような気がする。秀将様の本当の優しさを知っている伊縁には、そう思えてならないのだ。
何はともあれ、今は秀将様の心の安寧が優先だ。目立たないように、怒りを買わないように。そう自分に言い聞かせながら、今日も伊縁はおつとめに励んでいる。
「大変だ! 馬が暴れだした!」
庭の向こうで、何やら人の騒ぐ声がする。伊縁は秀将様の着替えを畳む手を止めて、声のする方へ目を向けた。当然部屋からは何も見えない。濡れ縁から庭へ降りてみる。ざわざわとした声は少しずつ大きくなっているようだ。
道明家の館は、敷地の中に元秀様を中心とした住居、まつりごとのための主殿、家臣たちが詰めている番所などの建物が集まって出来ている。それらをぐるりと取り囲むように土塁が築かれ、正門は堅固な石垣に守られている。その正門の近く、道明家が所有する馬を管理する厩の中で、どうやら一頭の馬が暴れているらしい。
万が一、館の中へ馬が走って来たら大変だ。伊縁は走り出した。馬のことならば、もしかしたら自分の知識が役に立つかもしれないと思いながら。
厩には数人の家臣たちが集まっていたけれど、どうしたらいいか手を出しあぐねている様子だ。
「馬が暴れたのですか?」
厩番の下級武士は、伊縁の声にいぶかしげな顔を向けた。秋津家の長男が小姓づとめをしていることは知られている。けれど、十五になったばかりの少年が暴れ馬をどうしようと言うのだろうとでも言いたげな顔だ。
「ええ。先日手に入れたばかりの馬が隣の馬と喧嘩をしてしまい、どうにも止められないのです」
「疾風号のことですね」
「秋津殿、なぜ馬の名前までご存じなのです?」
厩番は、驚いた声で伊縁に尋ねた。伊縁は小さく微笑む。やはり思った通りだ。
秀将様のために、自分にも出来ることはないか日々探し求めた結果、たどり着いたひとつだ。
道明家が所有する多くの馬の名前、特徴、性格を覚えて、いつ秀将様に聞かれても答えられるようにしておこう。刀、槍、弓……、武具もすべて記憶していくつもりで、こつこつと知識を蓄えていたのだ。馬には乗れないけれど、生き物の好きな伊縁は、道明家の馬たちについては特に頭に入れていた。
「毎日、そっと観察しておりました。疾風号は、隣の黒風号と相性が悪いようですね。餌の時間には、特に機嫌が悪くなるようです」
「ど、どうしてそれを?」
「おそらく疾風号は、前の所有者のところで餌を十分に貰っていなかったのだと思います。ですから、餌への執着があるのでしょう。黒風号は生まれも育ちも道明家ですから、自分が一番に餌を貰えて当然だと思っている。そんな印象を受けました」
「なるほど。たしかにそうかもしれません」
「二頭を離してみてはいかがでしょうか。間には、そうだな……大人しい白雪号を入れてみるのはどうでしょう」
「白雪のことまでご存じでしたか」
「白雪号は、わたくしがそばに寄ると嬉しそうに挨拶をしてくれます。きっと人間が好きなのでしょうね。こちらの言いたいことも分かってくれるに違いありません」
「分かりました。ですが今の疾風の状態では、とてもじゃないが人が近寄れないのです。今にも栓棒が折れてしまいそうな勢いでして」
「まず人を減らしましょう。疾風号が落ち着いてきたところで、二頭の間に大きな板を立てて、お互いを見えなくしてしまいましょう」
「承知しました」
伊縁は、普段から疾風号と黒風号の仲が悪いのではないかと感じていた。何かがきっかけで均衡が破られたのだろう。
厩番が黒風号を急いで別の場所に移すと、伊縁の言う通り、疾風号は次第に落ち着きを取り戻した。
「本当だ。秋津殿、ありがとうございます」
「いいえ、わたくしは何も」
黒風号の気配がなくなったからか、ようやく大人しくなった疾風号に、伊縁は心の中で話しかける。
(お前はどことなく秀将様に似ているな。毎日、落ち着かなかったことだろう)
疾風号はそれに応えるように、ぶるぶると鼻を鳴らした。その様子に、伊縁はまるで自分が励まされているかのような気持ちになった。
秀将様に存在すら認めてもらえない自分。認めてもらえずとも秀将様のために働くと誓ったのは自分だけれど、気持ちを奮い立たせるのは容易なことではなく、時々心が折れそうになる。
けれどそんな自分でも、今日はだれかの役に立ったのだ。大事になるのを防いで、こうして馬たちも穏やかでいられるようになった。それで良いではないか。だれに見られていなくても、こうやって自分の出来ることをやれば良い。
「よし」
伊縁が思わず声に出したその時。
「何がよしなんだ?」
伊縁が振り向くと、そこには厩の入り口に手を掛けてこちらを見ている人物の姿があった。
「正興様……」
「久しぶりだな、伊縁」
蓮司正興──。秀将様を暗殺しようとした蓮司家の跡取りだ。彼もまた道明家の館で、秀将様に次いで次期領主を狙える立場にある。十八になった正興様は、眩しそうな目つきで伊縁を見ていた。
「お久しぶりでございます、正興様」
「そうか。伊縁も館へ上がる歳になっていたのだな」
「はい。今はまだお目にかかれてはおりませんが、秀将様付きの小姓をつとめさせていただいております」
「秀将様の……ほう、会えてはおらんのか」
「わたくしの至らなさゆえでございます」
「見ていたぞ。厩の馬を全部覚えているなど、たいしたものではないか」
「いえ、そんな小さなこと。何の足しにもなりはしません」
「俺だったら、伊縁を小姓に付けたならば、十分な扱いをするがな」
そう言うと、正興様は指先を伊縁の乱れた前髪へと近づけ、毛束を払った。
「正興様……?」
「ますます綺麗になった」
「……?」
「相変わらず武術が駄目なら、俺が拾ってやってもいいぞ」
「正興様。それははずれくじを引くようなものでございます。わたくしはまだ自分のつとめすら果たせておりませんのに、皆様からご期待されるようなことなどなにひとつ……」
「冗談だ。相変わらず馬鹿だな、伊縁は。お前を小姓になんぞしようものなら、命がいくらあっても足りんわ」
「そ、そうでございますよね……」
昔のように、正興様から揶揄われたのだと知った伊縁は、恥ずかしさとともに懐かしさもまた同時にこみ上げてくる。
(正興様があの時わたくしを避けられたのは、気のせいだった。秀将様の暗殺未遂も、正興様ご自身とは関係ないのだし。また、昔のようにこんな風に笑いあえるのは、嬉しいことだ)
伊縁自身は気付いていなかった。恥ずかしさに目元を赤らめながらまつ毛を伏せたその様子を、暗い欲気を孕んだ正興様の目が、じっと見つめていたことに。
騒動が落ち着いたところで、伊縁は急ぎ小姓部屋へ戻った。
部屋にはまだ仕事が山積みだ。まずは行水の支度。その間に履物の直し、膳の支度。床をのべたあとは、いつお使いになっても良いように紙と墨の補充など。これらを、秀将様の前に出ることなく慎重に行わなければいけない。
本来ならば垢すりも掛け湯も小姓のつとめだけれど、他の者を寄せ付けない秀将様は、ひとりで風呂へ入られる。伊縁の仕事は、湯帷子と次の着替えを整えておくことだ。伊縁は急ぎ足で風呂場へ向かった。
支度を終えた伊縁は、何やら妙な胸騒ぎを覚えながら、急ぎ廊下を戻る。いつもならとっくに終わっている仕事の筈だ。騒動のせいで、どこかの順番を取り違えてしまったのだろうか。
胸騒ぎは的中した。廊下を曲がった先でぶつかったのは、秀将様の冷たい視線だった。
「……っ!」
伊縁は声にならない声を上げ、その場に立ちすくむ。蛇ににらまれた蛙とはまさしくこのことだ。
「去れと言った筈だが。俺に小姓は要らん」
「も、申し訳ござ……」
(しまった……。せっかくここまで頑張ってきたのが、台無しじゃないか)
いつか秀将様の心が穏やかになって、伊縁のことを認めて下されば良いという気持ちで励んできたけれど、これでは近くにいることすら叶わなくなってしまう。秀将様の機嫌を損ねてしまったお咎めも覚悟しなければいけない。伊縁は唇を噛み目をぎゅっと閉じて、俯くしかなかった。
「馬を宥めたくらいで、俺に認められるなどと思うな」
頭上でそう声がして、伊縁ははっと目を開けた。今、秀将様は何とおっしゃった?
伊縁がおそるおそる顔を上げれば、もう秀将様の姿は、そこにはなかった。