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再会

 都をわがものにしていた武家政権が、共食いのようにして力を失ったのを機に、各地の武将が牙を剥き始めた春。戦乱の予感はすれど、ここ道明沢では、若い武士の子弟たちが出仕し、春らしい爽やかな空気を芽吹かせている。


 寺での三年間を終えた伊縁もまた、新しくしつらえた着物に身を包み、いくぶん身体を強張らせながら館へ出向いているところだ。今日から伊縁は、秀将様付きの小姓としておつとめをすることになっている。

 伊縁の父は道明家に長く仕える家臣のひとりで、ここ一、二年ほどは、秀将様の世話役を任されていた。

 かねてより、秀将様の粗暴なふるまいに手を焼いていたという父から、伊縁に白羽の矢が立った。小姓が付けば、秀将様の気も緩むかもしれないし、これといって目立つところのない伊縁なら適役だろうと言うのだ。


 あの秀将様の元でおつとめをするということに実感が湧かないまま、伊縁は廊下を歩いている。何より理解しがたいのは、秀将様が粗暴なふるまいをされているということだ。

 たしかに寺に通っていた頃の秀将様は、口数も少なく、何を考えていらっしゃるのか分からないところはあったけれど、伊縁のような不器用な者にも分け隔てなく接してくれたことを思うと、にわかには信じられなかった。

(あの、わたくしに手ぬぐいを貸して下さった秀将様が……。三年の間に一体何があったというのだろう)

 いぶかしく思う伊縁の視線の先に、秀将様の部屋が見えてきた。いけない、余計な詮索をしている場合ではない。伊縁は父のあとを追った。


「だれだ」

「それがしの息子で、伊縁と申します。本日より、秀将様の小姓をつとめさせていただき……」

「俺はそのようなものを頼んだ覚えはない」

「そうおっしゃらず、身の回りのことを何なりとお申し付け下されば」

「要らん。刀の斬られ役にでもなるなら話は別だが」

「あ、いや、稽古のお役には立てぬ不器用者ではございますが、それ以外のことでしたら……」

 けんもほろろな秀将様の返事に、父が慌てて取り繕おうとしているのが分かる。伊縁は、額を畳にこすりつけたまま、秀将様の辛らつな物言いに縮こまるばかりだった。

 三年前、井戸の脇で手ぬぐいを差し出して下さった時の声音、謝ってばかりの伊縁を面白いと言って下さった時の笑い声。伊縁の胸に今も残る小さな鈴は、秀将様の声を思い出すたびに、ちりんちりんと音を立てた。そんな三年間が、頭上で崩れ去ろうとしている。

「お前」

 秀将様の声は、伊縁を指した。

「は、はい」

「武術の出来ない者など何の役にも立たん。俺に斬り殺されたくなければ、去れ」

「……はい」

 どうすることも出来なかった。秀将様の顔を見ることも叶わず、伊縁は部屋を出るより他なかった。

 お前の働き口は、改めて探すとしよう。そう言う父に頷きながら、伊縁は秀将様の声を反芻する。あの声の主が本当に秀将様だというのか。武術の苦手な伊縁を馬鹿にすることなく、助言を下さったあの秀将様なのか。先ほどの荒々しい口調で、粗暴なふるまいをされているというのか。

 たとえ脅し言葉だったとしても、斬り殺すなどと秀将様の口から出たことが、伊縁の心を打ちのめした。


 館から家に戻ってもなお、伊縁はやりきれない思いに苛まれていた。部屋にこもり、胸の中に大切にしまってある秀将様の声を呼び起こす。あの頃の優しい声から、どうしてこんなにも変わってしまわれたのだろう。

 十二の伊縁に、秀将様の背中は大きく頼りがいのあるものに見えた。道明沢を背負って立つ秀将様から声を掛けられた嬉しさは、今も忘れてはいない。

 あれから三年。その間に秀将様を大きく変えてしまう何かがあったのだとしたら。

(それはきっと、秀将様のお心を痛める出来事だったに違いない。父上に聞いてみよう。聞いたところで、わたくしに何が出来るわけでもないのだけれど)


 伊縁の熱心な問い掛けに幾分たじろぎながらも、父は重い口を開いた。

 それは、伊縁の想像を超えた秀将様の痛ましい出来事。そして、なぜ急に寺子を辞められてしまったのかに繋がる出来事だったのだ。

 三年前のこと。秀将様は、寺から帰る道の途中で、刺客に襲われたのだという。

(わたくしに、明日も、と言葉を掛けて下さったあとだ……!)

 幸いにも、里山のふもとまで迎えに来ていた供の者が気付いて、秀将様とともに刺客を追い払い、事なきを得たそうだ。

 次期領主候補が死んでしまっては道明家の面目が立たないからと、元秀様より寺通いの中止を言い渡された秀将様は、それ以降、周囲へ敵意を向けるようになってしまった。

 側室の子はいつ命を狙われてもおかしくないと、身をもって経験してしまったのだ。そんなこと、伊縁程度の武士の子ならば経験すらしないことなのに。秀将様は、常に周りを疑いながら生きていかなければならなくなったのだ。

 刺客は処罰された。その際持ち物から、元秀様の正室、照子様の実家に繋がる印が出てきたのだという。側室の子である秀将様が、いまだ男子をお産みになられていない照子様側からしてみれば、殺してしまいたいほど憎らしい存在なのだということが、はっきりしてしまった。

 照子様は蓮司家の出。伊縁が共に寺で学んだ正興様の伯母にあたり、秀将様と正興様は、血は繋がっていないものの、従兄弟の間柄になる。

(正興様の口が重くなっていたのも、そのせいなのだろうか。今となっては分からないけれど)

 ご生母は違うとはいえ、表向きには秀将様の正式な母君は照子様だ。母の実家から刺客を差し向けられたと知った時の秀将様の気持ちを思うと、伊縁は胸が締め付けられる思いがした。

 しかも、蓮司家の印が出てきたにもかかわらず、元秀様からの言及は一切なかったのだと言う。

 刺客だけを処罰してこの一件をおしまいにすることで、秀将様に対する処遇というのも明確になってしまった。父にも守ってはもらえない、とはっきり言われたようなものだ。

(秀将様のご心中は、いかばかりだっただろう。わたくしだったら、そんな毎日など耐えられない。それを秀将様は三年間、ひとりで耐えて来られたのだ)

 伊縁は一晩中、秀将様のことばかりを思った。あの頃、自分を励ましてくれた秀将様に何とか報いたい。

 次の日伊縁は、もう一度おつとめをさせてもらえないか、父に頼んでみることにした。たしかに武術の出来ない自分は役立たずだけれど、雑用ならば自分でもお役に立てる筈。

 伊縁の熱意に押された父から、秀将様を怒らせないよう気を付けることを条件に了承を得た伊縁は、秀将様のために労を惜しまず働くことを心に誓った。

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