山あいの小さな領地道明沢 >《どうみょうさわ》の秋は早い。赤や黄に色づき始めた里山の木立を、小さな生き物たちが忙しそうに走り回っている。
さく、さく、と、山道の落ち葉を踏みしめながら少年が歩いていた。足音に気付いた一匹の生き物が、警戒をするように動きを止めて少年の様子を伺う。
(驚かせてすまない。わたくしはお前を傷つけたりはしないから、安心おし)
少年の心が通じたのか、生き物は木の実を頬にたくわえると、里山の奥へと消えていった。少年の名前は、
伊縁は秋が好きだ。暑い夏が終わり、ひんやりとした風を感じながら歩くこの季節は、特に気持ちが晴れやかになる。綺麗な落ち葉や木の実、冬支度をはじめる小さな生き物たちに出会えるのも楽しい。
道明沢で暮らす武士の子弟は、この山道を行き来するのがならわしだ。山道の先にある道明家の菩提寺で、三年ほど読み書きや武士の心得、文学や兵法などを習う。
伊縁の好きなことは、書物を読んだり生き物や草花を愛でること。一方で、だれかと争いあうのは大の苦手だ。秋津家を継ぐことも本意ではない。けれど、そんなことを口にしようものなら、道明家の家臣である父から叱られてしまう。
武術の稽古や父の小言から逃れられると思えば、山道の往復はむしろご褒美といって良かった。
寺の住職は少し変わり者で、世の中にあまり出回っていない珍しい書物を集めていた。伊縁の目に留まったのは、地[[rb:の理 > ことわり]]を記した一冊の書物だ。
今年の夏も、道明沢を襲った洪水のせいで、せっかく実った作物が台無しになってしまった。落胆する領民の気持ちを思うといてもたってもいられず、伊縁はその書物を手に取っていたのだ。
まだ十二の伊縁にはとても難しく思えたし、他の子ども達は興味がなさそうにしていたけれど、時間を掛けても良いから読んでみなさいと住職が言うので、少しずつ読み進めているところだ。
力のない伊縁に何が出来るわけでもないけれど、この書物がいつかみんなの役に立つのではないか。そんな気持ちで、一生懸命取り組んでいる。
「伊縁、蛇道をぼんやり歩いていたら、ころげ落ちるぞ」
寺へ向かう途中に、蛇道と呼ばれる曲がりくねった道がある。注意して歩かなければ、足を踏み外しそうなほど細い道だ。枝と枝の間を忙しく行き来する生き物を見ながら歩いていると、後ろから声を掛けられた。
伊縁が振り向けば、ついこの間名前を改めたばかりの、三つ年上の少年が怖い顔をして立っていた。
「
「お前はいつもそうやって上の空だから、武術の稽古をしても、あっという間に負けてしまうのだ」
「はい」
「まったく仕方のない奴だな、伊縁は」
「申し訳ありません」
正興様と呼ばれた年上の少年は、ひょいっと伊縁を追い抜き手を差し伸べた。威圧的な物言いながらも、伊縁が転ばないよう手を貸してくれるつもりらしい。
「ほら」
「え」
「捕まれ」
「正興様のお手をわずらわせるなど出来ません」
「馬鹿、そんなことを言っている場合か。早くしろ」
「はい」
正興様の手を借りて蛇道を渡り終えた伊縁は、ほっとひと息つくと、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「そう思うのなら、さっさと歩け」
「はい」
この寺では、身分や年の差はさほど問題にされない。いずれはみんな、道明家の家臣として道を違えていく運命ではあるけれど、今はこうやって、肩を並べて同じように学問に励むことが出来る。そんなところも、伊縁が寺通いを好む理由のひとつだ。
寺の質素な外観が見えてきた頃、伊縁はいつもと様子が違うことに気付いた。
「正興様、何やら人が多いですね」
「ああ、そう言えば今日だったな」
「え?」
「
「秀将様が?」
「道明沢武士の子弟とともに、学ばれたいそうだ」
道明沢の領主、道明元秀様のご長男である秀将様もこの寺へ通われると聞いて、伊縁は小さく震えた。
一、二度お目にかかったきりの秀将様は、たしか伊縁の四つ年上だ。元秀様のご側室のお子様だそうだけれど、伊縁にはそれがどういうことなのか、しっかり理解は出来ていない。ひとつ分かるのは、次の領主様の座に一番近い方が、秀将様だということだ。
(そんな方と一緒に、寺で学ぶだなんて)
はっきりと覚えてはいないけれど、お会いした時の秀将様は、たしか一言も話されたことがないように思う。人柄もまったく分からない。どのように挨拶をして、どのように接すればいいのだろう。
「伊縁、また足が止まっているぞ。急げ」
「は、はい」
いくら身分の別なく学問が出来る場とはいえ、秀将様と自分が親しくなることなどないだろう。大丈夫。いつも通り、書物のことだけを考えていよう。伊縁は、大股で歩く正興様のあとを追った。
ある日の休息の時間。身体を動かす者、たわいのない話に興じる者。思い思いに休息を取る子ども達の中で、伊縁は、住職にお借りした書物と格闘していた。
(秀将様の前で、組み討ちの試合をしないか)
(組み討ち? この寺でか?)
(そうだ。だれが道明沢武士にふさわしいか、だれが秀将様のお役に立てるのか、お見せしようではないか)
(なるほど、それは名案だ。秀将様とお近付きになれる、良い機会になる)
そんなささやき声が、書物をめくる伊縁の耳に聞こえてきた。
秀将様が寺に通い出してふた月が経ったけれど、伊縁はここでも秀将様の声を聞いたことがない。ちらりと目をやれば、固く口を結び目を伏せて、いつもひとり文机に向かわれている。
正興様のお家である
一緒に学ばれたいとおっしゃったわりには、ふた月の間だれにも話し掛けることはなかったし、そんな秀将様に、こちらから声を掛けるのもはばかられる。組み討ちの試合を見せれば、秀将様の方から声を掛けていただけるのではないかと、ささやき声の主たちはそう言っているのだ。
(わたくしは……ご辞退申し上げたい)
武術の苦手な伊縁は、組み討ちをしたところで負けるのは目に見えている。どうか自分にまで出番が回ってきませんように。という伊縁の願いは、あっけなく打ち砕かれた。
ようい、はじめ。の声を聞いた瞬間、伊縁は背負い投げられ、地面に叩きつけられていた。からすがカアカアと鳴いている高い空を見上げながら、やはり武術は嫌いだ、と伊縁は思う。
「伊縁、早く起きろ。邪魔だ」
正興様の容赦ない声に、のろのろと身を起こす。着物に付いた汚れを手で払うと、伊縁だからな、仕方ないよな、という寺子たちの笑い声を背に受けながら裏庭へ回った。汚れた手を洗わなければ。
笑われたり馬鹿にされたりするのには慣れている。馬にも乗れないし、弓も上手に引けない。木刀では何度もあざを作ったし、相手に足技を掛けたことなど一度もない。今の組み討ちだって予想通りだ。
悲しいのはそこじゃない。
(秀将様は、お席にすらいらっしゃらなかった。見る価値もないと言われたようなものだ)
秀将様もどうぞお外へ。という声で、秀将様が庭へ面した濡れ縁に立たれたのはたしかに見た。けれど、伊縁が負けて立ち去る際にその姿はなく、お前など道明沢武士失格だと言われたようで、さすがに堪える。
裏庭の井戸を見下ろしながら、伊縁はぽろりと涙を零した。
「手を拭け」
聞き覚えのない声に、伊縁は慌てて涙を拭き、顔を上げた。視界に入ったのは、まさにその秀将様だった。
「ひ、秀将様」
「いっそ気持ちが良いくらい無様だったな」
初めて聞く秀将様の声だった。声変わりを終えたばかりの優し気な低音で、言葉は伊縁をおちょくっているというのに、それすらも心地良く耳に届く。
伊縁の胸は、鈴のように音を鳴らして震えた。何と返事すれば良いのだろう。あまりにとっさのことで、気の利いた言葉が思い浮かばない。
「も、申し訳ございません」
「地の理も良いが、武術も励めよ」
「は、はい」
秀将様は自分の手ぬぐいを伊縁の手に放り投げると、大股でその場を立ち去った。
井戸の脇に取り残された伊縁は、渡された手ぬぐいをぽかんと見つめる。
今、一体何が起こったのだろう。この手ぬぐいを下さったのは、たしかに秀将様だった。そして、わたくしを励まして下さった。……地の理も良いが、と。
(秀将様は、わたくしが読んでいる書物をご存じだった……!)
秀将様は、自分のような目立たない者にまで目を配って下さるような、優しい方だった。負けた者を切り捨てるような方などと、ちらっとでも思ってしまった自分が恥ずかしい。
二言三言交わしたくらいで秀将様の人柄を解ろうなどとおこがましいけれど、少なくとも伊縁の心に温かいものをもたらして下さったのは間違いなかった。
耳にまだ残る秀将様の声を、しばらく心の中でこだまのように繰り返していた伊縁だったけれど、ふと大変なことを思い出して顔を青くした。手ぬぐいのお礼を申し上げていないではないか。
組み討ちの試合が終わったところで、秀将様とお話出来る機会が増えたかと言われれば、そんなことはなかった。
数日が過ぎても秀将様は相変わらずひとりで過ごされているし、寺子たちは、それを少し遠巻きに見ている。
何事もなかったかのように庭へ戻られた秀将様は、お褒めとねぎらいの言葉を下さったそうだけれど、だれを気に入るだとか、だれを取り立てるだとかについては、一切触れることもなかったらしい。下心を隠し持っていた上級武士の子どもはいくらか残念そうにしている。
そんなことよりも、早いこと秀将様にお礼を申し上げなければ。今日こそはと思いながら、手ぬぐいは返せないままでいる。伊縁は綺麗に洗って畳んだ手ぬぐいをそっと胸に当て、深呼吸をした。
「ひ、秀将様」
帰り支度をさっさと済ませた秀将様は寺を出るのも早く、伊縁はつまずきそうになりながら、あとを追いかけた。名前を呼ばれた秀将様が、足を止めて振り向く。だれだと言わんばかりの強い眼差しに、思わず伊縁は俯いてしまった。
「あ、あの……あの、ありがとうございました……」
ああ、どうして自分は、次期領主様にきちんとしたお礼も言えないのだろう。伊縁は顔を上げられないまま、かろうじて返すべき手ぬぐいを差し出した。
「ああ。あの時の奴か」
秀将様の声から警戒心が消えたように思え、伊縁はそっと目を上げた。見れば、口の端にちらりと笑みのようなものが浮かんでいる。あの時の伊縁の負けっぷりを思い出しているようだ。
「あのようなところを……、その、申し訳ございませんでした」
「武術は嫌いか」
「は、はい。あの、申し訳ございません……」
秀将様の方から聞き返して下さるとは思わず、伊縁はまた口ごもってしまう。
すると秀将様は、くつくつと笑い始めた。伊縁は驚いて見つめるばかりだ。秀将様が、こんなに楽しそうな顔をされるなんて。
ひとしきり笑われたあと、秀将様は口を開いた。
「お前は謝ってばかりだな」
「も、申し訳ござ……あ」
「良い。面白い奴だ。お前に武術が性に合わないのはすぐに分かった。むやみに稽古を繰り返したところで上達などしないだろう。お前の得意な学問のように、理屈で覚えれば良いのだ」
「学問のように……」
「そうだ。俺には許されないことだが、お前の場合は、それらしく動けていれば問題なかろう」
つい先ほどまで楽しそうにされていたのに、そう言い終えたあとの秀将様のお顔に少しだけ翳りが差したように見えて、伊縁は気になった。
(道明家の跡取りである秀将様にも、許されないことがあるのだろうか)
伊縁の様子に気付いた秀将様は、すっと表情を戻した。まるで、本心を見せてはいけないとだれかに叱られたかのように。
「話が過ぎた」
「も、申し訳ございません」
謝る伊縁に目をくれることもなく、秀将様は背を向けて歩き出した。住職の教えなのか、山道を歩くのは、秀将様であっても他の寺子たちと同じらしい。
秀将様が歩けば、恐れ多くて蛇道も真っすぐな道になってしまうかもしれない。そんな風に感じるほど堂々とした背中だ。伊縁がその背中を見送っていると、ふいに秀将様が歩みを止めた。
「明日もな」
振り向きはしなかったけれど、その言葉は、たしかに伊縁に向けられたものだった。明日も。明日も秀将様に会える。伊縁の胸にある鈴の音が大きく鳴った。
「はい。明日も」
けれど、その明日が来ることはなかった。次の日から、秀将様は寺子を辞められてしまったのだ。
「正興様、秀将様はもう寺へは来られないのでしょうか」
「知らん」
正興様なら何か知っているかと伊縁が訊ねてみれば、いつにも増してつっけんどんな答えが返ってきた。
今日はいつも読む書物ではなくて、秀将様が教えて下さった通り、武術の指南書に取り組んでみようと思っていたのに。
「また組み討ちの試合をすれば、秀将様もおいでになるのではないでしょうか」
伊縁は、再び正興様へ声を掛けてみる。すると正興様は、酷く冷たい目で伊縁を一瞥した。
「随分と秀将様のことを気にしているのだな。秀将様のお考えなど、お前に分かるわけもないだろう」
「……申し訳ありません」
何故だか正興様の機嫌はたいそう悪くなってしまい、伊縁はもう何も聞くことが出来なくなってしまった。
正興様は少し意地悪なところもありながらも伊縁を助けてくれる兄のような存在だったけれど、その会話以降、言葉を交わす機会はめっきり減り、やがてその正興様も寺子を卒業されてしまった。
寒い冬も暖かい春も、暑い夏も心地良い秋も、伊縁はひとり、里山の生き物と寺の書物だけを友として過ごした。そんな伊縁も十五の歳を迎え、とうとう武士として歩み始める日がやって来た。