夢の中で何度も何度も名前を呼ばれた。
呼んでる相手はすごく幼い春で、小さい手を必死に伸ばして俺の手を繋ごうとしてる。
いつの間に小さくなってんだよ。
そう思った時には自分の小さい手も視界に入ってきて、その時にやっと気付いた。
ああ、これは夢で、幼い時の記憶なんだなって。
春が嬉しそうに微笑みながら俺へ話しかけてくる。
一緒に人形遊びをしようか。一緒にケーキを買いに行こうか。一緒に砂のお城を作ろうか。
そう言って優しく笑いかけてくれる姉ちゃんが…大好きだった。
ぼやっと視界が霞み始めた次は、薄らと大人になった姉ちゃんの姿が現れる。
昔とは何一つ変わらない優しい笑顔で、何かを呟かれた。
声が一切聞こえなくて、口元だけがゆっくりと動いてる。
それが何を伝えてるのかわからなくて、こっちから声をかけてみた時だった。
「姉、ちゃん…?」
「ッ……」
何故か笑顔だったはずの姉ちゃんが突然悲しそうな顔になる。
その表情がより鮮明に見えてきた瞬間、バッと勢い良く体を起こした。
「…!起こしに、来てくれたんだ」
「うん…朝ご飯、出来て、るから…ね」
やってしまった…。心の中でそう呟きながら顔面を手で覆って項垂れる。
今確実に、寝惚けた状態で呟いてた。
春じゃなく、姉ちゃんって…一番しないように心がけていた傷つく行為を、反射的にやってしまった。
ほんの数秒、自分がやった行為に懺悔してから次の行動を起こす。
部屋から出て行こうとしてた春の左腕を掴んでベッドの中に勢い良くダイブした。
「…!ゆ、き……」
「ビビった?」
「う、ん…そうだね。びっくり、したよ」
「なあ春、俺と寝たい?」
いつもの悪戯をしながら春の顔を覗き込む。
後ろから抱きこむ姿でベッドに横たわっていた所為で、春の表情はずっと見えなかった。
だから、冗談半分で笑いながら聞いたことを、死ぬほど後悔した。
「……!」
「ふッ…う゛、そう…だ、ね…ッ」
最悪だ…。
顔を両手で覆って泣いてる春に胸が締め付けられる。
本当に、軽はずみだった。
いつもの調子でふざけたら、さっきやってしまった失敗を無かったことに出来るんじゃないかって思ったんだ。
悲しむ隙も与えずに楽しい会話をすれば、帳消しにして笑ってくれると思ったんだ。
「ご飯、ね…あるから、一階に…下りよっか」
それなのに今目の前にあるのは、必死で泣くのを堪えながら無理に笑おうとする顔。
咄嗟に考えたことだったとはいえ、何で追い打ちをかけるような選択をしてしまったんだろう。
無神経で、傷つけることしか出来ない自分を殴りたくなった。
スッとベッドから立ち上がって部屋を出ていく春を、今度は止めることが出来ない。
両手でもう一度頭を抱えて考える。
あの時どうすれば、春は笑ってくれてた?
あの時どうすれば、春を傷つけずに済んだ?
どんなに脳をフル回転させても答えは見つからなかった。
夢の中で見た昔の記憶。その映像が鮮明に残って俺の頭を支配する。悩みの種を増やしていく。
「…姉ちゃん」
幼い頃の、恋愛感情が無かった頃の、あの時の春は…姉だった。
でも今の春は姉ちゃんじゃない。
2歳年上の、俺のことを想い続けてる優しい女の子。
俺が高1の時に、そう頭の中で整理して納得させたはずだった。
今までずっと姉ちゃん姉ちゃんって呼んでたのを春に変える。
意識して、自分で何度も何度も確認して口に出す。それでもどっかで拒否反応を起こしてる自分がいた。
「10年以上も姉だと思ってた奴をいきなり女だって思うこと自体が無茶だろ」
もう一人の自分が、姉ちゃんを泣かせないように必死になってる自分へ突っ込みを入れる。
優しい方の自分は、そんなことねェよってずっと否定し続けていた。
春の気持ちを断ったあの時、言ったことには一片の嘘も無い。
男として春を見る。あの時もこれからも一生。
そう誓ったんだ。
重い腰を上げてベッドから立ち上がり、バイトへ行く準備をする。
一階へ下りた時には春の姿は見当たらなくて、温かい朝ご飯だけが机に並べられていた。
「あ、雪!今日一緒だったんだ。なんか疲れてない?」
「…大丈夫」
バイト先に着いた途端、一際笑顔で話しかけてくれた綾乃に数秒遅れて返事をした。
こういう明るい所とかいつも笑顔でいる所とかにちょっと魅かれてたりもする。それと…
「あ、ねえ今日帰り私の家来ない?近いし休んでってくれて良いからさ」
「それって誘ってんの?」
「そう誘ってんの」
強気で自信いっぱいの発言が、春とは正反対で落ち着くことがある。
俺が春のことを振ったのは好きなタイプじゃなかったからだって、自分に言い訳したいからかもしれない。
春の気持ちに気付く前までは、別に綾乃みたいなタイプが好きなわけじゃなかったから。
「今日は早めに帰りたいから無理」
「えー、何で?またお姉さんが理由?」
「そう。一人で夕飯食わすのこれで5日目だし」
「なんかそれってシスコン過ぎない?そんなにお姉さん可愛いわけ?」
「……。」
ああ、可愛いよ。ちょっと地味だけど。
そう小さく答えたのは間違いだったのかもしれない。
拗ねたように俯きだした綾乃を見てはあっとため息をつく。
今言ったことを忘れさせる意味も兼ねてまたボソッと呟いた。
「やっぱ今日帰り寄らせて」
「…?!おっけー、待ってる!」
一気に機嫌が直ったことを横目で確認して、雑貨屋の商品に目を戻す。
春には、この方法効かなかったのにな…。
心の中で呟いたことは、また綾乃とは関係のない春のことだった。