「……姉ちゃん?!」
「え…?」
ケーキを受け取って店を出たのと同時に、遠くの方から雪の声が聞こえた。
日も沈んで外灯だけが道を照らす。その中に、薄らと雪の姿が見えて心臓が暴れ出した。
会っちゃいけない。絶対に、今会っちゃいけない。
右手に持ったケーキの箱を気にも留めずに走りだす。
全力で走って、こけそうになっても走って、息が続かなくなった時だった。
「何やってんだよ!」
「…!」
強く左腕を掴まれて少しバランスを崩す。
握られた腕は何故か力が入り過ぎていて、すごく痛かった。
「は、離して!」
「彼氏なんかいねェのに意味不明な電話すんなよ!どこ行く気だった!」
「うるさいな!離して!」
「人の話聞いてんのかよ?!おい暴れんな!…」
春!!
一際大きく叫ばれた自分の名前に、体全部の回路が停止した。
今、雪はなんて叫んだ…?
今、どうして…姉ちゃんって言わなかったの?
疑問ばかりが浮かんで正常に頭が働かない。
呆けてしまった私の前で、息を荒げながら言葉を続けたのは雪の方だった。
「…聞いて。俺の、話。ちゃんと、聞いて…」
「…。」
握られていた左腕から雪の手がゆっくりと離れていく。
俯きながら言われた言葉は途切れ途切れで、少し聞きとり辛かった。
「春が、俺を避け始めた時から…気付いてた」
「え…?」
「俺のことを姉弟として見てるんじゃないって…気付いてた」
ごめん…逃げてごめん。傷つけてごめん。こんなやり方、絶対に間違ってた。
そう続ける雪の声が微かに震え始める。
泣いてるの?雪も、苦しんで悩んでくれてたの…?
そう伝えようとした私の言葉は、雪の震える声によって遮られた。
「…今日来た子は彼女じゃない。彼女が出来たって言った後もすぐにダメになってとっくに別れてる。今日のことは全部嘘で…諦めさせるためにした」
ズキンと、胸の軋む音がする。
諦めさせるという言葉を聞いただけで、死にそうになるほど苦しくなった。
雪は私を姉としてしか見ていなかった証拠。そんなことはわかりきっていたことで、望んですらいなかったのに私の心は痛み出す。
姉としての自分。家族としての自分。女の子じゃなくて、姉弟としての自分。
雪はきっとそんな私を見て断るんだろう。
でもせめて、せめて最後くらいは…姉弟として接してほしく無かった。そう思った瞬間…
「今から俺が言うことは、弟としてじゃなくて男として言うことだから」
「ッ……」
「ちゃんと、聞いてほしい」
じっと、真剣な眼差しで見つめられる。
弟としてではなく男として。そう言ってもらえただけで、ドッと涙が流れ出てきた。
ああ、やっぱり私は…
「俺は、春とは付き合えない」
雪が、好きだ。
「姉だからとか、そういう理由じゃない」
何で私が弟じゃなくて、雪を好きになったのか…わかった気がする。
「春のことは大事に思ってる。けど、一緒にケーキ食べたりテレビ観たり…友達としての好きだから」
「…うん」
「好きに、なってくれて…ありがとう」
「ッ…!う゛ん」
全てを受け入れて優しく包んでくれるこの男の子が、大好きなんだ。
大好きなんだ。
死ぬほど、大好きなんだ。
「ふって…くれ、て…あ゛りが…と」
たぶんずっと、死ぬまで…この気持ちは尽きないんだ。
彼に好きな人が出来て、彼に彼女が出来て、彼が結婚をして、子どもが出来ても…尽きることはないんだ。
でもこの愛は、常に彼の幸せを願い続ける。ずっとずっと、君のためを想うから。
だからどうか…愛することを許して下さい。
「今から言うのは俺の我がままだけど…」
「な、に…?」
「これからも、友達でいてほしい。だから…突然いなくなったりとかは…しないで。心臓止まるから」
「…都合の良い、こと…言うなぁ」
「…ごめん」
そう言って笑った時の私の顔は、ちゃんと可愛く笑えてただろうか。
悲しさと嬉しさが入り混じって、歪んだ顔になってたかもしれない。
止まらない涙の所為でぐちゃぐちゃになってたかもしれない。
それでも俯こうとは思わなかった。
前を向いて堂々と、愛しい人を見つめていることが誇らしく思えた。
「帰ろう」
「ケーキ…買ったの」
「またショートケーキ?」
「…うん」
いつも一緒に歩いたケーキ屋からの帰り道。その道を仲良く並んで帰りながら交わす会話。
ほとんど昔とは変わらない。
けど1つだけ違うことは、2人とも手を繋いでいないことだった。
大学2回生になって、1人暮らしも落ち着いてきた4月。今年も、この季節がやってきた。
ワンルームのマンションにインターホンが鳴り響く。
「はーい!」
パタパタとスリッパの音を立てながら玄関へ走って扉を開いた。
扉の向こうにいるのはきっと、約束してなくてもわかる相手だ。
「…ケーキ、買ってきたけど食べる?」
「ショートケーキ?」
「ショートケーキ」
久しぶりに会ったのに変わり映えなく繰り広げる会話。それが心地よくて思わず笑みが零れてくる。
部屋の中へ招き入れて扉を閉めてから振り返った。
毎年この季節になると様子を見に来てくれる大きな背中。
今年で高校を卒業する彼は、あの時から変わらず私のことをこう呼び続ける。
「春……怪我は?」
「まだ今年はしてないよ」
「冷や冷やするからこの季節すっげェ嫌なんですけど」
「うーん…そうかな。でも私は好きだよ」
この季節が来る度に、君を愛しく想うから…
『春』
雪が恋しくなる、温かい私の季節
「じゃーん、今日は桜色の春ショートケーキを買ってみました」
「……天然タラシ」
「はあ?!」