弟に彼女が出来たと知らされた時から、今まで以上に弟を避けるようにした。
自分自身を戒めるように、弟とすれ違っても話しかけられても挨拶程度しか返さないように心掛ける。
もしかしたら私の態度を見て弟が腹を立ててるかもしれない。
それでも、そっちの方が良いんだと自分に言い聞かせていた。
嫌われた方が、私の感情もどこかへ消えてなくなるんだって…そう言い聞かせていた。
あれから3カ月。大学受験に無事合格し、家を出て1人暮らしをすることが決定した。
今から一週間後には家を出る。この家から出ることで、気持ち悪い私はいなくなる。
もう弟の姿を見て胸が苦しくなることはない。
もう弟の声を聞いて愛しくなることもない。
あと一週間。あと一週間で、終わるんだ。
そう決意していた私へ最悪な出来事が起こる。
そうだった。
今、この季節は…春だった。
「…いらっしゃ、い」
「お邪魔しまーす」
弟の彼女が、突然家へ訪ねてきた。
弟との約束はしていないみたいで、家の中で待たせてほしいと頼まれる。
あまりにも急過ぎて心の準備が出来ていなかった。
にっこりと微笑んで愛想を良くして迎え入れてあげる余裕が、まだ私の中で作れていなかった。
「ま、待っててね。もうすぐ帰ると思うから…」
「はーい」
一生懸命作った笑顔はどこか頬が引き攣っていて、眉は今にも泣きそうに垂れさがってしまう。
お茶を出した手には、尋常じゃないほどの汗が出てきていた。
そそくさとキッチンの方に戻り、夕飯を作りながら彼女の後ろ姿を見つめる。
大人っぽく染めている茶色の髪。可愛く巻かれた毛先。綺麗に塗られたメイク。
なんとなく、モンブランのような高級なケーキを連想する。
どれをとっても私とは大違いの女の子。すごく綺麗で、大人っぽい。
チーズケーキが好きだって言ってたのにな…なんて、そんな不毛なことを考えてはぼーっとして、また考えて…それを繰り返した。
数分後、帰ってきた弟と共に彼女が2階へと上がっていく。
その姿を見送った後、耐えていた涙が零れる前に自分の部屋へ駆け出した。
誰にも見られちゃいけない。誰にも知られちゃいけない。
こんな醜い所を晒しちゃいけないんだ。
弟のことを想って泣く姉。言葉でそう表わせばすごく純粋なものに感じる。
でも、今私が抱いてる感情は不純以外の何ものでもない。
「…ッ…う」
部屋の扉を閉めて壁へ背中を預ける。
上を向いて、出来るだけ涙を流さないように気を付けた。
弟を想って泣くことすら、いけないことだと思った。
弟が愛しいって悲しむことすら、許されないことだと思った。
だから必死で涙を飲み込んで違うことを考えるようにする。
今日の晩ご飯は何にしようか。
鶏肉があったから…親子丼にしようか。
「雪が…大好き、な…親子丼…う゛ぅッ」
壁に背中を預けたまま足に力が入らなくなってズルズルと床へ座りこむ。
耐え続けていた涙はいつの間にか頬を伝って足へ落ちていた。
どんなに忘れようとしても忘れられない。
どんなに止めようとしても止められない。
話しかけられても突き放すように接してきたし、今日だって会話をしたのはたった一言。
『姉ちゃん、もう春だし気をつけろよ』
『…うん』
それなのに、頭の中はもう弟のことしか考えられなくなった。
服を選ぶ時、雪が気に入ってくれるかどうかを悩む。
ご飯を作る時、雪が好きな物や食べたい物は何かと考える。
髪を触る時、雪がしてくれたあの髪形を思い出して何度も何度もやってみる。
私は、私はもう、病気なんだ。
早くこの家から出て行かないと、取り返しのつかないことが起こるような気がした。
だって、だって今の季節は…
「春、なんだから…」
首筋まで流れ出す涙を拭って、クローゼットの扉を全開にする。
必要な服を全部取り出して旅行鞄に詰め込む作業を繰り返した。
最低限必要な物。あと一週間で1人暮らしになるのだから、ここさえ乗り切ればきっと大丈夫。
一週間だけ、陽子ちゃんの家に泊まらせてもらおう。そう決心して下着を鞄に詰め込んだ時だった。
「…ゅ、き……ぁッ」
「…!」
隣の部屋から、微かに聞こえた女の子の声。
その甘い声が何を表わしているのか、考えなくても容易にわかってしまった。
聞きたくない。
聞きたくない聞きたくない聞きたくない!!
そう心の中で叫びながら、バンッと勢い良く扉を開けて部屋を飛び出す。
右手に抱えた鞄は必要な物全てを詰めきれていなくて、とても軽々しい荷物になってしまった。
私のものになって。
そんなことは、一度だって願ったりはしてこなかった。
私のことを好きになって。
そんなことは、願うどころか否定ばかりし続けてきた。
でも1つだけ。1つだけ我がままを言っても良いのなら、これだけは願いたかった。
春の時だけは、私のことを見て。
春という特別な季節だけは、私のことだけを見てて。
それが例え弟としての愛情でも良いから、私のことを見守ってて。
この季節だけはどうしても心が壊れてしまうんだ。
何かが、起こってしまうんだ。
「ゆ、き…ゆき……ゆきッ」
呼び続けた愛しい人の名前は、真っ赤な夕日に溶け込んで赤く染まっていった。
「それで?あんたは何で泣いてんの」
「別に…。一週間泊めてほしいの」
「理由も聞かずに一週間は泊められないね」
「…ケチ」
陽子ちゃんの家に訪ねた時には、私の両瞼はパンパンに腫れあがっていた。
鼻をすすりながら無理やり家の中に入る。
陽子ちゃんの家族に直接泊まらせてほしいと頼みこんで、本人の了承無く泊まれることになった。
部屋への階段を上っている途中、眉間に皺を寄せていた陽子ちゃんが話を切り出す。
「弟くんでしょ。泣いてる理由」
「ッ……」