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第16話 人酔いという罠

「うぇえええ……うぉおおおお……」


「大丈夫ですか? サラ様」


「だ、大丈夫……くない……うぇええええ……」


 はぁ、はぁ。くそ、なんてことだ。これが、これが噂に聞く人酔い!


「我慢しないでください。吐けるなら全て吐き出した方がすぐに楽になります」


「う、うん、あり……うごぁえええええ……」


 私はチハヤに背中を撫でてもらいながらトイレに向かってその──みなまで言うまい。乙女として最低なことの一つをしているのだ。


 恥ずかしい、恥ずかしくてできることなら時間を巻き戻したいくらいだけど、気持ち悪さがまさる。


 チハヤ。いっつも、悪魔とか魔王とか思ってごめん。もう言わないよ。


 本当は天使や神みたいに優しいんだ、チハヤは。こんな痴態をさらしても嫌な顔一つせず接してくれる。うぅう。油断したら泣いちゃう。申し訳なさと情けなさで泣いちゃう。


 すぐに宿を取ったことまではよかった。さっそく街を散策し、レストランで海の幸をふんだんに使ったパスタを食べたのもよかった。でも、意気揚々とギルドに殴り込みに行ったのがよくなかった。 


 ギルドまでの大通がめちゃくちゃ、もう人とすれ違うのも大変なくらいにめちゃくちゃ人がいたんだ。あれは、そうまるで人がゴミのようだった。


「うぇええええ……」


 思い出しただけでこみ上げてくるものがある。くっそ、これが私の都会デビューなのか? 晴れやかな王都でなんでこんな惨めな思いをしなきゃいけないんだ。


 村にいろってことなのか? 外に出るなと。私がなにか悪いことでもしましたか?


「うっ……ぷ……はぁ、はぁ……チハヤ、もう大丈夫だ。ありがとう」


 どんなときでもお礼はしっかり述べないとね。これ、常識。


 チハヤの温かい手が背中から離れる。トイレを流すと、私はチハヤの手を借りながらよろよろと立ち上がり、そのまま部屋へと戻ってベッドに横になった。


「これを」


 チハヤが用意してくれたタオルで顔を拭く。神妙そうな目が私を見下ろしていた。


「重ね重ね、ありがとう。いいよ、気分は少し良くなったから。向こうへ行ってても。少し休むね」


「ですが、まだそばにいた方がいいのでは?」


「いいから、大丈夫。変に気を遣っちゃうし、ごめんね」


「わかりました。それでは、なにかあればお呼びください」


 チハヤは洗面所へ向かった。


 よかったぁー。行ってくれて。だって、今めちゃくちゃ口臭いもん。絶対、もうヤバいくらい。


 入れ替わるように宿屋の中を散策していたグレースが帰ってきた。


 何も知らないグレースは嬉々とした笑顔でベッドに近づいてくると、ダイブした。私のベッドに。私のお腹の上に。


「はうわぁっ!!」


 衝撃が走る。せっかく落ち着いたはずの吐き気が胸の上まで上ってくる。ヤバいヤバいヤバいマジヤバい。


「グレース! 何をしてるんですか?」


 慌てて戻ってきたチハヤがグレースの体を抱き上げた。


「サラ様! 大丈夫ですか!?」


「あーははー。そんな大きな声出さなくても大丈夫だよ~仕方ないよ~グレースは何も知らなかったんだし。ちょっと前までただの猫だったんだし」


 ダメージはでかいがな。悪気はないんだ。これ、大事。


 チハヤはグレースを床に降ろすと、私の最悪な状態を簡潔に説明してくれた。それを聞いたグレースは一番端のベッドで飛び跳ねて遊び始めた。


「すみません、サラ様。ケガの回復は魔法ですぐに治るのですが、そういう類のものは」


 あーそうなのね。魔法って意外に万能じゃないのね。


「あはは。じゃあ、もしかして人酔いは──」


「大変心苦しいのですが、慣れていただくしかないですね」


 だよねー。


「ですが、ご安心を。人は慣れる生き物です。何日もすればきっとサラ様も平気になられるはず。それまではどうか辛抱ください」


「はいはい、了解~」





「サラ様、起きてください。サラ様」


 チハヤの声?


 パチリと目が開く。部屋はすっかり真っ暗闇に覆われていた。


 声のした隣を向くと、チハヤの顔が目と鼻の先にある。


「ち、近っ!」


「サラ様」


 チハヤは私の手を取り、両手でぎゅっと握り締めた。


 え? なにこれ、どういう状況?


 チハヤの少し憂いのある瞳が至近距離で私を見つめる。


「私はあなたにお仕えできて大変幸福です。……異世界転生者ということで特別視せず接してくれたサラ様に、私は次第に心が惹かれていました」


 えっ、えっ、えっ?


「サラ様──私は──」


 顔が近づいてくる! まつ毛長っ! じゃなくて唇が、あぁ!


 ダメ──ダメだよ、チハヤ──。


「ダメだよ、チハヤ!!!!!」


 気づけばベッドから起き上がっていた。日はまだ明るい。


 ?? 夢? そうか、夢かって、あっ!


 テーブルで紅茶を飲んでくつろいでいたチハヤが驚いたような顔でこっちを見ている。


 し、しししししまった! なんとかしてごまかさなければ!


「いや、その~あれだよ、あれ!」


 ダメだ、なんも思い浮かばない。


「その様子だと元気になられたようですね」


 チハヤはふっと微笑むと立ち上がり、私の方へと近づいてくる。


 うわぁ、変な夢のせいでいつもよりカッコよく見える……気がする。優しくされたせいもあるかもしれないけど……。


 チハヤはベッドのそばまで来ると、私を見下ろした。私の手は思わずシーツをつかんでいた。


「まだ時間はありますから、もう一度行きましょうかギルドに。必要とあれば体を支えて差し上げますが?」


 カーっと顔が熱くなる。ごまかすために私はベッドに潜り込んでしまった。


「あと、5分! 5分したら支度して向かうから!」


「承知しました」


 チハヤの足音が遠くなっていく。グレースの安らかな寝息が聞こえた。



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