――晩秋のある日。
俺と弟の次郎は、父信虎に呼ばれた。客人が来ているので、大広間に顔を見せるようにとの事だ。
武田信虎。
大きな体で筋骨隆々、黒々とした髪を無造作に束ねている。戦国武将というよりは世紀末武将の方がしっくりくる外見だ。
近畿の大名三好宗三から譲られた愛刀『
部屋の中央には、
ほっそりとして『おじゃる』とか言いそうな感じだ。
俺は大広間の右横の廊下に、弟の次郎と二人で並んで座る。
次郎は俺の四歳年下で数え年で十才、現代日本だと九才になる。母親は俺と同じ大井の方だ。
父信虎がこちらに目をやり野太い声を出す。
「うむ。来たか。次郎はこちらへ参れ。太郎はそこで待て」
そう言うと父信虎は自分の隣をポンと叩いて、次郎に座る様に示した。
大広間の空気がザワリとした。
嫡男の俺が廊下で待ち、次男の次郎が父信虎の隣に座る。
武家であってはならない序列を乱す行為だ。
そんな空気にお構いなく父信虎が客人に話かける。
「これが次郎でござる。先ほどの婚姻の話ですが、この次郎の嫁に頂きたい」
「お待ちを……恐れながら……そこな次郎殿は、ご
ふむ。どうやら父信虎と客人は婚姻の話をしていたらしい。
話の流れからすると客人は京都の三条家の使者殿、そして武田家の嫡男、つまり俺との婚姻をまとめに来た。
ところが父信虎が次郎をプッシュしだした訳だ。
そりゃ客人の表情も硬くなるよな。
京都の三条家は公家で藤原氏の流れを汲む名門。
武田家も甲斐守護職で武家の名門だが、所詮は田舎武士だ。
家格は三条家の方が上だ。
三条家の使者としては、嫁ぎ先が嫡男ならオーケーだが、次男では……ってところだろう。
父信虎も次郎がお気に入りとはいえ、ごり押しが過ぎる。
「ああ。ご安心召されよ。太郎は、じき
「困りましたな……
「次郎が太郎に代わるだけの事。使者殿のお気に為さる事ではない」
大広間が
板垣さんや
まずい空気だな……。
あまり京都からの使者に家中のゴタゴタした様子を見せるのは良くない。
「太郎は下がれ!」
「はっ!」
父信虎から下がるように言われた。
俺はざわつく大広間を後にした。
後で板垣さんから受けた報告によれば、あの後も信虎はしつこく次郎をプッシュしていたそうだ。
京都三条家からのご使者は早々に退出したとか。
俺は板垣さんに命じて、三条家のご使者に色々と土産を持たせる事にした。
今は必要ないが、俺が武田家の当主になった時には、京都とのパイプが役に立つ。
しかし……、父信虎は俺を廃嫡すると明言した。
あそこまではっきりと言われたのは初めてだ。
何か嫌な予感がしてならない。
武田家家中の雰囲気も悪い。
そんな中またも小競り合いが発生した。
場所は甲斐国と信濃国との国境だ。
「稲の刈り取りが終わる早々にケンカを吹っかけてきたか。笑止!」
父信虎は嬉しそうに出陣をしていった。
俺の派閥からは、
見送る軍列は何か嫌な空気を纏わせている様に感じられた。
俺の感じ過ぎだろうか?
――それから七日目の夜。天文三年晩秋。
自室で眠っていた俺は騒がしさに目を覚ました。
馬のいななき、大声で話す人の声。
尋常ではない空気を感じる。
「誰かいるか?」
返事は無い。
布団から抜け出し、乱れた寝間着の前を合わせ、帯を締め直す。
戸を開け廊下に出ると辺りは暗い。新月で月明かりもない。
その暗さに嫌な予感が大きくなる。
「誰かいるか?」
大声を出すが返事は無い。
もう一度辺りを見回す。
誰かが廊下を走って来る足音が聞こえて来た。
松明をかざしこちらに向かって来る。
深い闇の中から松明の明かりに照らされて、こちらに来る人物の顔が……板垣さんだ!
後ろに数名俺の派閥の侍を従えている。
「太郎様!」
板垣さんは俺の側に来ると平伏した。
表情が硬い。何かあったな!
「板垣さん。何がありましたか?」
「信虎様、お討ち死に!」