■その224 こんにちは、赤ちゃん・またね、赤ちゃん■
主の
「あんなに寝るなんて、まるで冬眠ね」
主の食欲が出てきたことが嬉しくて、美世さんは楽しそうな口ぶりで、テーブルの隅で6人分の温かい麦茶を淹れています。主はベッドの上じゃなくて、皆と応接ソファーに座って、久しぶりの食事をしています。
主の左右を挟む
因みに、梅吉さんは、双子君達のサッカーに保護者としてついていきました。今日は、隣町で試合があるそうです。
「育児疲れは、馬鹿にならないわね。
それにしても… 桜雨、消化の良いものなら大丈夫よね? 何か、つまんで」
桃華ちゃんが主のご飯を見かねて、自分のお弁当を主に差し出しました。一応、検査で内臓に損傷はなさそうと分かりましたが、主、4日間は完全に食べていなかったので、事故のショックも考慮してお粥から食べることになりました。普通のお粥より、もっとドロドロで… 本当に、糊みたい。
「桃ちゃん、ありがとう~。でも、お腹がビックリしちゃうと大変だから。
少しずつ、固いものになるみたい。それに、薄いけど塩味がついてるから、見た目ほど酷くないよ」
主は糊みたいな熱々のお粥をすくって、少しずつ少しずつ食べていきます。まぁ、4日間も点滴栄養だけで、お腹は空っぽでしたからね。本当は、昨日食べ始めていれば、今日は普通のお粥ぐらいだったんですけど、主、食べようとして寝ちゃったんですよね。
「桜雨ちゃん、退院したら何食べたい? 何でも用意してあげる」
美世さんは皆に淹れたての麦茶を配りながら、主に聞きます。
「いつもみたいに皆と食べられるなら、何でも良いかな」
「桜雨ちゃんたら…」
美世さんが苦笑いして言葉を続けようとした時でした。けたたましいノックとドアが開くのが同時位で、
「
相変わらずヒールの音はカツカツ鳴りますけど、高さは今までの半分です。輝君を抱っこしているからなんですよね。
「あ、二葉さん、輝君、こんにちは~」
主がニコニコ挨拶すると、水兵さんスタイルの輝君は、主に向かって両手を広げました。抱っこのおねだりです。
「はいはい」
二葉さんがちょっと心配そうな顔をすると、主は嬉しそうに輝君に両手を差し出しました。それを見て、二葉さんは慎重に輝君を主に渡しました。
主、久しぶりに輝君を抱っこです。
「輝君、ご飯いっぱい食べてるかな?」
輝君も久しぶりに主に抱っこしてもらって、とっても嬉しそうです。
「あうあう… あだだだ…」
輝君、主が寝ていた時の報告ですか? 一生懸命お話ししてて、皆はホッコリと見守っています。
「だー… なうなうぅぅぅ…」
けれど、輝君が小さな手を主の胸に乗せた時、たまたま出たその言葉と左右に動かした手の動きに、輝君以外は固まりました。空調の温度が、3度ほど下がったかな? って感じです。
「に… 肉よ、肉! 桜雨ちゃん、お肉いっぱい食べれば、落ちた胸もすぐに戻るわ! 若いんだから、大丈夫!!」
慌てた二葉さんは、三鷹さんの手からお弁当を奪い取って、主に差し出しました。残念、今日のおかずにお肉はありません。『鮭のごま甘酢照り焼き』です。
「なうなう、たうあたううぅぅぅ… だーぁう」
輝君、今度は主の胸でお顔をスリスリしながらご満悦。
「
思わず、鬼の顔で主から輝君を取り上げようとした三鷹さんの眉間すれすれに、笠原先生がお箸を突き出しました。
「私のオッパイも、輝君と一緒で成長中ですよ~」
主、自虐ですか…。 苦笑いしながら、主は輝君を良い子良い子と撫でました。
「… 輝君、本当に桜雨の胸、好きよね。私とお風呂入っても、見向きもしないもの」
「そう言えば、私や美和ちゃんが抱っこしたりお風呂入れた時も、特別な反応しないのよね。輝君にとって、胸は大きさじゃないのね~」
美世さん、桃華ちゃん、三鷹さんと笠原先生が居場所を無くしていますよ。
「それで、今日はいつにもましてお元気な登場ですが、どうかされたのですか?」
変な空気をなおそうと、笠原先生は大きめの咳払いをして、二葉さんに聞きました。
「あ、そうそう、輝の保育園決まったから、報告。住まいの近くって言うか、この病院の隣なんだけどね、来週から預かってもらえるの。で、それを機に、家に帰って洋平と2人で子育て頑張ろう! って、洋平と話し合ったのよ」
二葉さん、まだ持っていたお弁当から、ミニトマトをつまみ食いです。三鷹さんは、取られたお弁当より、主と輝君が気になってしょうがないようです。
「隣って… あ、なんか工事してた」
「確か、廃校になった専門学校でしたか?」
隣っていっても、お互いの敷地が広いから、少し距離はあるんですよね。
「音楽系の専門学校で、授業は人気があったみたいよ。でも、経営が全然駄目。大赤字だして、借金抱えて閉めたの。で、隣を売りに出していたんだけれど、売ったお金で一気に借金を返そうとしたのね。ばっかじゃないの?! って金額だから、誰も買わなかったのよ」
二葉さん、今度は鮭のごま甘酢照り焼きをムシャり。
「もしかして…」
「そうよ、買ったの。で、内装を保育園様にいじったの」
ビックリして聞く桃華ちゃんに、二葉さんはケロっと答えます。
「いつ、買ったんです?」
「桜雨ちゃんに、輝を預けた日。ここまで保育園が無いとは思わなかったから、頭にきたのよ。ない物は、グチグチ言っててもどうにもなんないんだから、作ればいいのよ。私には、それが出来るだけのお金もコネクションもあるから」
笠原先生の質問に、サラッと答える二葉さん。お弁当を食べる手は止まりません。
「でも、保育士さんも不足してるんでしょう?」
「だから、言ったじゃない、私にはお金があるって。どこの保育園よりも、うちの園はお給料いいわよ。それに、慣れるまでは園児の人数も多くしないつもりだから、先生方のシフトも楽に組んでもらうようにしたの」
お金って、凄いですね…。
「そうか~… 輝君とも、さよならか」
主、とっても残念そうに見つめました。輝君も、じっと主を見つめています。
「あら、いつでも遊んでよ。私も、いざとなったら頼る気満々だし。それに、赤ちゃんがいなくなって寂しくなるなら、早く三鷹と作っちゃいなさいよ」
爆弾発言! 主達、今日2度目の硬直です。
「二葉ちゃん、修二君と梅吉の前でそれは禁句だからね~。血の雨が降るわ」
美世さんは空になったお弁当箱を二葉さんの手から取って、代わりに程よくぬるくなった麦茶を持たせました。二葉さん、それを一気に飲み干しました。
「っていうか、まだ高校生ですから!!」
「… そうね、ちょっと、気が早かったわね」
恥ずかしいのか、怒ったのか、桃華ちゃんはお顔を真っ赤にして声を上げました。そんな桃華ちゃんを見て、二葉さんはクスクス笑いながら輝君を抱っこしました。
「そんなわけで、お礼を言おうと思って、来たのよ。
二葉さんは深々と頭を下げて、ヒールの音を高々に鳴らして出ていきました。
「本当、最後まで嵐みたい」
美世さんは苦笑いしながら、自分のお弁当を食べ始めましたが、主達はそれぞれ考え深い顔で、麦茶を啜っていました。