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第222話 こんにちは、赤ちゃん・『ありがとう』

■その222 こんにちは、赤ちゃん・『ありがとう』■


 皆さんこんにちは。僕は、折りたたみ傘です。これといった特徴のない、真っ黒の折りたたみ傘。


 僕の最初の持ち主は、中学生の男の子でした。同年代の子達より身長が高くて、目つきが鋭くて、右手の親指の付け根にホクロがあって、口数の少ない男の子。剣道が大好きで、僕を持つ手の内側は、硬いマメでゴツゴツしていました。

 その男の子には、小さなころから大好きな大好きな女の子がいました。男の子より小さな女の子。その子が好きだろうからと、僕の持ち手にカエルのシールを貼りました。


 ある雨の日、その女の子が帰れなくなって困っていました。細い両腕に抱えているのは、プレゼントように包装してもらったばかりの絵本。本屋さんにいる時に雨が降り出したから、女の子は傘を持っていなかったんです。男の子は顔も見せず、名前も言わないで、僕を女の子に差しだして雨の中を走って帰りました。

 その日から、僕の持ち主はその女の子になりました。名前は白川桜雨おうめちゃん。


 桜雨ちゃんは、僕をとってもとっても大切にしてくれました。持ち手に貼ってあるシールを見て『カエルちゃん』って、名前を付けてくれました。

 いつでも、貸してくれたお兄さんに返せるように。と、片時も放さずに僕を傍に置いてくれました。それでも、少しの雨の時は、僕を使ってくれました。使った後は、ちゃんと乾かして、防水スプレーもかけてくれました。激しい雨や風の時は、僕が壊れてしまうかもしれないからと、確りと鞄にしまっちゃうんです。

 そのお兄さんは、桜雨ちゃんのすぐ近くで、ずっと見守ってくれていました。… 周りからは、『ストーカー』と言われていましたけれど。


 僕は桜雨ちゃんと一緒に、色々な所に行って、色々なものを見て、色々な事をして… 不思議な事も、怖いこともありました。

 桜雨ちゃんの好きなものは、僕も好きになりました。雨上がりの緑、絵本、絵、家族、友達、カエル… 桃華ももかちゃんの歌と三鷹みたかさん。僕は桜雨ちゃんと一緒で、とても嬉しくて、とても楽しかったです。

 仲間もたくさん出来ました。皆、桜雨ちゃんの優しい気持ちが形になったものです。

 桜雨ちゃん、僕を宝物にしてくれてありがとう。僕に『心』をくれて、ありがとう。ほら、桜雨ちゃんの大好きな三鷹さんの温もりと、桃華ちゃんの歌声ですよ。



 手拭いのカエルの『サクラ』です。


「シャボン玉とんだ

 屋根までとんだ…」


 桃華ももかちゃんが三鷹みたかさんの横で、シャボン玉の歌を歌い出すと、ひかる君は嬉しそうに両手をあげて空中で握ったり開いたり、左右に振ったりします。

 桜雨おうめちゃん、いつもこの歌を歌う時は、シャボン玉を吹いてあげていたんですよね。


「カモメの水兵さん

 ならんだ水兵さん…」


 次は『かもめの水兵さん』です。明るく歌いますが、眠っている桜雨ちゃんの顔を見ると涙がこみ上げてきます。それをぐっと飲み込んで、桜雨ちゃんが大好きでいつも褒めてくれる声で、桃華ちゃんは歌います。輝君が喜んでくれているのが、桃花ちゃんには救いでした。


「東条、『ビリーブ』を歌ってくれるか? 桜雨は、東条の歌う『ビリーブ』が、一番好きだから」


 ご主人様が、いつにも増して小さな声でリクエストしました。桜雨ちゃんの手を握って撫でながら、白い顔を見つめたまま…


 桃華ちゃんは姿勢を直して、大きく深呼吸をしました。そして肩の力をフッと抜いて軽く開くと、荒れた唇が今まで以上に大きく開きました。


「たとえば君が傷ついて

 くじけそうになった時は

 かならず僕がそばにいて

 ささえてあげるよその肩を」


 音源のない病室に、その透明な歌声がよく響きます。


「世界中の希望のせて

 この地球はまわってる」


 桃華ちゃんは天使が羽を広げるように両手を広げたまま、鼻をツンと上げて、軽く目を瞑っています。二葉さんも、それまで声を上げてご機嫌だった輝君も、その歌声に聞き入っていました。

 ご主人様はギュッと目を瞑って、握った桜雨ちゃんの手に唇を押し当てながら、声に出さずに歌います。歌いながら、願います。


「I believe in Future

 信じてる…」


 歌いきった桃華ちゃんは、ポロポロ涙を零していました。


「… 三鷹みたか


 二葉さんのその声はあまりに小さくて、一生懸命願っているご主人様には届きませんでした。


「三鷹、三鷹… 桜雨ちゃんが…」


 1回目より大きな声で呼ばれても反応しないご主人様でしたが、桜雨ちゃんの名前に弾かれるように顔を上げました。


「… 桜雨」


 愛らしい焦げ茶色の瞳が、まだぼんやりとですが開いていました。ふっくらとした色の抜けた唇が、何か言いたげに震えています。


「洋平! 洋平、呼んでくる!」


 二葉さんは輝君を桃華ちゃんに押し付けるように預けて、凄い勢いで病室を出ていきました。


「桜雨ぇ~…」


 桃華ちゃんは確りと輝君を抱っこしたまま床に座り込んで、声を上げて泣きだしました。


「桜雨?」


 ご主人様が桜雨ちゃんの口元に耳を寄せます。


「…」


「もちろんだ」


 小さな小さな声に、ご主人様はお互いの額を、真っ白な包帯と大きな絆創膏を、軽く合わせてニッコリ微笑みました。

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