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第221話 こんにちは、赤ちゃん・眠り姫へ…

■その221 こんにちは、赤ちゃん・眠り姫へ…■


 真っ白な病院の個室。ベッドに寝かされた細い体に、数本の線が付けられていて、隣の大きな機械に繋がっています。目尻の少し下がった瞳が閉じられたまま、今日で2日…。

 薄く入れた紅茶色の髪。いつもは小さくふっくらとした桜色の唇も、スベスベとした肌も、血の気のない白。微かに上下している胸と、小さいけれど病室に響く規則正しい機械音だけが、命が消えてない証。


 ワタシは手拭いに刺繍されたカエルの『サクラ』です。ご主人様の三鷹みたかさんは、脱力したままの白く小さな右手に何かを包ませて、大きな両手で包んで願っています。小さな手を優しく優しく摩って、少しでも体温をあげようとしています。

 ベッドの横に座ったのは2日前。いつもの眼力は無くなって、ただただ悲しみに溢れています。目の下は濃いクマが出来て、無精髭も伸びています。必要最低限そこから動かないご主人様は、憔悴しきっていました。


 病室の隅にある応接セットのソファーでは、倒れ込む様に桃華ちゃんが、その向かい側のソファーで腕を組んで座ったままの姿勢で修二さんが寝ています。二人の目の下にもクマが出来ていて、顔色もあまり良くないです。修二さんは眉間の皺も深くなって、無精髭も伸びていて… 寝顔でも、いつにも増して凶悪なお顔です。


 微かなノックの後、買い物をしてきた美和さんが入ってきました。桃華ちゃんと修二さんの間のテーブルに買って来た物を出すと、スポーツ飲料のペットボトルを手にして、ご主人様に声をかけました。


三鷹みたか君、水分だけでもとって」


「… 桜雨おうめが起きたら、一緒に飲みます」


 美和さんを見ることもなく、ジッと桜雨ちゃんを見つめています。そんなご主人様の肩を美和さんは軽くポンポンと叩いて、修二さんの横に座って逞しい肩に頭を預けて目を閉じました。


 この2日間、ご主人様はずっとこんな感じでした。職員会議中、桜雨ちゃんが事故にあったと連絡を受けて、反射的に職員室を飛び出しました。桜雨ちゃんが救急車で運ばれたのは、水島総合病院でした。あまりにも興奮していたご主人様は、手術室の前にいた小暮先生に殴りかかりました。追いかけて来た梅吉さんと笠原先生に取り押さえられて、未遂ですみましたけれど… ご主人様、手術が終わるまで、梅吉さんと佐伯君にぎっちり固められていました。笠原先生だと力不足だったので、早々に佐伯君が呼び出されたんですよね。… 修二さんも暴れそうになって、美和さんが何とか落ち着かせていましたし。


 バスを待ちながらLINEを打っていた桜雨おうめちゃんは、小暮先生とお話ししていた後輩さんに、『ドン!』と道路へ、バスの前に力いっぱい押されたそうです。運が良かったのは、バス停に停まろうとしていたから、バスの速度が落ちていた事。鞄がクッションになった事。すぐに救急車を呼べたこと、でした。


 手術室から出て来た桜雨ちゃんを見たご主人様は、小暮先生に向けていた怒りもすぐに消えて、すがり付くように一緒に病室に入りました。


「桜雨…」


 優しく優しく… お母さんの美和さんが呼ぶより優しく、ご主人様は桜雨ちゃんの名前を呼び続けます。


「桜雨…」


 心臓は一回止まりました。救急車が来る前に、小暮先生が心臓マッサージをしてくれたので、すぐに動き出したそうです。自分で呼吸もして、頭に巻かれた包帯以外、目立った傷はありません。


「桜雨ちゃん、おはよう」


 軽いノックの後、二葉さんが《ひかる》君を抱っこして入ってきました。二葉さんは輝君を抱っこしたまま、桜雨ちゃんの左側のパイプ椅子に座りました。二葉さん、目の前のご主人様を見て、少しため息をつきました。


「聞いて聞いて、桜雨ちゃん。今日ね、輝、伝い歩きしたのよ。リビングのローテーブルを使ったの。秋君を追いかけたかったみたいで、一気に5歩も歩いたんだから」


 二葉さんはいつもの調子で、桜雨ちゃんに話しかけます。輝君は二葉さんのお膝から桜雨ちゃんの上に上がろうと、一生懸命お布団をグイグイ引っ張っています。


「でもね、輝ったら、桜雨ちゃんの作ってくれるお粥が一番好きみたいで、私の作るお粥は中々食べてくれないのよ。だから、もう一度、作り方を教えてね。

 あと、ちょっと音程の外した歌も好きみたい。私の歌でも泣き止んではくれるんだけど、機嫌治るまで時間かかるのよ。桜雨ちゃんの時は直ぐなのに」


「あうー」


 輝君は「そうなんだよー」とでも言うように、ウンウン頷いて、お布団をぺんぺんしました。


「それにね、ここに居る弟も、大きな図体してるくせにずっと泣いてるのよ。貴女の歌で、機嫌を直してあげて。それで、こっち(三鷹)にはお粥じゃなくて、出汁巻き玉子だったわね。作って、一緒に食べてあげてくれるかしら?」


「だっだっ、あだだだ、だー」


 輝君も、何か話しかけています。


「歌は、私の専売特許。… 今日は、輝君も知ってる歌にしようか?」


 いつの間にか目を覚ました桃華ちゃんが、三鷹さんの横に立っていました。


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