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第209話 君の想い・俺の想い

■その209 君の想い・俺の想い■


 ネクタイピンの代わりにするには針は細いし、何より年数がたち過ぎていた。古ぼけたカエルのピンバッチ。今朝、出張に行くならと、出勤前に桜雨おうめが付けてくれた。


 信号が青になったので、渡ろうと足を出した瞬間だった。ピンバッチがネクタイから落ちたのに気が付いて、咄嗟に拾おうと屈んだ瞬間…


 暴風と共に、鉄の塊が俺の横のガードレールに突っ込んできた。鼓膜をつんざく様な爆音… 空気の塊か鉄の塊か… それらが俺の体を数センチ後ろへ吹っ飛ばした。


軋む全身

血で見ずらくなる視界

遠くから聞こえるサイレン

手の中にあるピンバッチの感触だけが、やけにリアルだった。




 高校生の時にやっていたバイトは、友人の住む商店街で唯一の本屋だった。そんなに大きくなかったが、駅の隣という立地条件も手伝って、バイトを必要とするぐらいには賑わっていた。

 ハッキリ言って、接客は苦手だった。俺はもともと口数が少ない。不特定多数の、しかも初対面の人間と話をするのはとても苦痛で、相手の問い掛けにどう返答していいか分からない時も多々あった。そんな俺に、バイト先の店主とその奥さんは、根気よく仕事を教えてくれた。バイトの目的が、とても不純な俺に。


三鷹みたかさん、あのご本、取ってくれますか?」


 この店一番のお得意様は、まだ小学生の桜雨おうめだった。お小遣いが溜まると、絵本や小説を買いに来る。友達や弟達へのプレゼントにも、よく本を選んでいた。


「これか?」


「ありがとう」


 本を取って手渡すと、決まって桜雨は大事そうに抱きしめて、本当に嬉しそうに微笑む。眉と下がり気味の目尻をさらに下げて、小さな桜色の唇を綺麗に湾曲させて、白い頬をうっすらと桜色に染める。

 俺にしてみれば、たいした高さではない。でも、まだ小学生の桜雨にとっては、とても高い。だから、ついついお礼を言う笑顔が見たくて、桜雨が好きそうな絵本は高い場所に飾っていた。

 この数年前から、俺は桜雨の家庭教師もしていたし、桜雨と同居の従兄の友人として、さらに前から家に出入りしていた。だから、桜雨が次に買おうとしている絵本等は簡単にリサーチ出来た。


 あの日は、俺の対応がそうとう悪かったようで、客から散々怒られた。そのせいか、店主はあまり煩い事は言わず、奥さんは励ましてくれた。それを、店に来ていた桜雨に見られていた。


「三鷹さん、あのご本、とってくれますか?」


 いつもの様に、俺に頼む桜雨。けれど、その本は桜雨の好みの物ではなかった。


『月刊 リング』


 プロレスの月刊雑誌のバックナンバー。一応、いつもの様に手渡すと…


「ごめんなさい、やっぱりこれじゃなくって… その…」


 桜雨にしては、珍しく歯切れが悪かった。少しモジモジしてから、本を受け取る代わりに両手を握って出してきた。


「これ、お守り。お仕事、頑張ってね」


 雑誌の上にコロンと落とされたのは、真新しいカエルのピンバッチだった。確か、算数と国語のテストが100点だったから、ご褒美に買ってもらった物だったはず。


「これ、桜雨が頑張った証拠だ。貰えない」


「うん。頑張ったご褒美に買ってもらったの。だから、今度は三鷹さんが頑張れますようにって。私の頑張ったエネルギーのお裾分け」


 桜雨なりの励ましだった。


「… ありがとう。でも、これは、お父さんとお母さんが桜雨を思って買ってくれたものだから貰えない」


 そう言うと、桜雨は残念そうにうつむいてしまった。そんな顔をさせてしまったのに、そこまで俺の事を思ってくれているのが嬉しかった。


「貰えないから、貸してくれ。俺が一人前になったら、返すから」


 そう続けると、桜雨の表情は一気に輝いた。


「うん!! 私が付けてあげるね」


 いつものニコニコとした表情で、「しゃがんで」と言う。言われた通りにしゃがむと、店のエプロンの胸の位置に、小さな手でカエルのピンバッチを付けてくれた。


「三鷹さんが、頑張れますように」


 その時の可愛い祈りは、今でも効いていた。




 夢から覚めた体は、ヒリヒリズキズキとあちらこちらが痛い。特に頭の前の方がズキズキと痛む。視界が定まるのに、少しだけ時間がかかった。白い天井と、視線の片隅に、点滴が見えた。


 … デジャブ。いいや違う、去年も同じことがあった。あの時は火事だったが、今回は… そうだ、事故だ。


 出張帰りのあの時… 交差点を渡る直前、ネクタイピン代わりにしていたピンバッチが落ちなかったら、運が良くて車に跳ねられたか、悪くて下敷きかタイヤに巻き込まれたかだったな。

 ピンバッチ… また、桜雨に護られた。


 そこまで頭が回るようになると、右手が誰かに握られているのが分かった。あと、柔らかな感触がある。去年と同じ感触だ。


 桜雨…


 ゆっくり頭を右に向けると、薄く入れた紅茶色の頭がすぐ傍にあった。両手で握っても、俺の右手を隠しきれていない。その手の塊を枕に、桜雨おうめはベッドに頭を乗せて寝ていた。目の周りや鼻の頭が真っ赤だ。白い頬に残る涙の痕が、まだ乾いていない。


 また、心配をかけてしまった。


 悪いと思いつつも、その小さく細い薬指に、俺が送った指輪がはまっているのを見ると、満たされた気持ちになる。祭りの景品の、緑色のガラスの指輪。ただの玩具おもちゃの輪っかで、この子の気持ちを縛り付けている。笠原が東条妹に言ったように『足枷あしかせ』でしかないのに… けれど、桜雨は少しずつ少しずつ、気持ちを伝えてくれている。だから、『足枷』ではなく『約束の証』と、素直に思えるようになった。

 桜雨の俺を思う気持ちが嬉しくて、暴走しそうになるのを押さえるのが辛いが… 今はまだ、我慢だ。


「卒業するまで待つ。って、約束だからな…」


あの大雨の日、この小さな唇で俺の頬に触れた時、桜雨はどれだけの勇気を出してくれたんだろうか? 瞬間の、微かな感触。けれど、俺はまだハッキリと覚えている。小さく、ふっくらとした桜色の唇。


 こうして軽く親指で撫でただけでも、気持ちが昂る。噛りつきたくなる。


「不純異性交遊は、時と場所を選びなさいよ。まったく、そんな傷だらけで何をしようとしてるんだか」


 聞き覚えがある嫌な声と共に、カーテンが勢いよく開かれた。


「梅に見つかったら、コンプラ~って、煩いんでしょう?!」


 仁王立ちしていたのは、パンツスーツにピンヒール姿の姉だった。



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