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第208話 傘と本と恋心

■その208 傘と本と恋心■


 夏休み最後の日、今日は僕の主・桜雨おうめちゃんの初めてのお給料日です。夏休みだけのアルバイトだったので、約1カ月半程のお給料は最終日に手渡しで貰うお約束だったんです。


「… いいの?」


「はい! もちろんです!!」


 閉店時間を10分ほど過ぎた店内です。自動ドアに『CLAUSE』の看板を下げて、シャッター代わりのロールカーテンを下ろして… レジの前で戸惑う店主。主はお店のエプロンを外して、初めて貰ったお給料袋から、お金を出していました。


「でも… 社割、きくんだよ?」


「それじゃぁ、意味がないんです。本当は、家族に何か美味しい物を奮発しようかと思っていたんですけど、笠原先生に『自分が一人で仕事をした記念に、自分の物を買いなさい』って言われたんです。だから、買うなら『これ』って、最初から決めていたんで。… これで、ピッタリですよね?」


 主は「でもねぇ…」と煮えたぎらない態度の店主を気にもしないで、レジカウンターの置いてあるトレーにお札を置きました。


「うん。ピッタリだねぇ…」


 店主はお金を確認して、眼鏡の上の部分から主をチラッと見ました。主、とてもワクワクしていて、焦げ茶色の瞳をキラキラさせています。そんな主の顔を見て、店主は溜息をついて苦笑いしました。


「桜雨ちゃんは、本を買う時、幾つになってもそんな顔が出来るんだね。おじさんは羨ましいよ」


 そう言いながら、店主は主に厚みのある紙袋を差し出してくれました。


「これは、今日まで頑張ってくれたお礼」


 その紙袋の上に、いつもエプロンに付けていたカエルのピンバッチが置かれました。


「いいんですか?」


 主はちょっとビックリして、ピンバッジをじーっと見つめました。お店のエプロンと一緒に、このピンバッジも返したんです。


「古くて嫌かな? 何か、新しい物の方が…」


「いえ! これがいいです!! ありがとうございます」


 主は店主の言葉に被せるように答えて、深々と頭を下げました。


「こちらこそ、ありがとう。桜雨ちゃんが居てくれて助かったし、楽しかったよ。また、いつでもアルバイトに来てね」


 紙袋とピンバッジを手渡しながら、店主はちょっと涙目でした。


「私も楽しかったですし、お勉強にもなりました。ありがとうございます」


 主はそれ等を受け取ると、ギュッと胸に抱えて、もう一度大きくお辞儀をしました。


 外は、いつの間にか雨が降り出していました。それも、小降りじゃなくてバケツをひっくり返したような本降りです。数センチ張り出したテントの下で、紙袋とピンバッジを藤の大きなかごバックにしまっている間も、アスファルトで跳ねた雨粒が、主のスニーカーをみるみる濡らしていきます。


「カエルちゃんじゃぁ、駄目だね」


 主、小雨じゃないと僕を使ってくれないんです。壊れたり、痛んだりするのが嫌なんですって。


「… コンビニまでなら、大丈夫かな?」


 主は篭バックを胸や肩で守る様にギュッと抱きしめて、勢いよく走り出そうとしました。


「良かった、間に合った」


 そんな主に、大きな傘が差しだされました。三鷹みたかさんです。


「すまない、遅くなった」


「… 約束してないんだから、気にしないで。って、いつも言ってます。でも、助かりました」


 走って来てくれたんですね。三鷹さんの息が少し上がっているのに気が付いた主は、ふっ… と、昔の事を思い出しました。


「大きな傘。これなら、三鷹さんの肩も濡れないね」


 買ったばかりの、大事な大事な本。激しく降る雨。意を決して、本を濡らさない様に抱きしめて、雨の中を走って帰ろうとした時…


 あの時は、折り畳みの傘を置いて雨の中に走って行ってしまったけれど、今日は肩を並べて一緒に歩きます。


「三鷹さん、ありがとう」


 今も、跳ね返る雨で足元はビショビショです。けれど、今は大きな傘に一緒に入って、同じお家に帰ります。

あの時と同じように、大事な大事な本を胸に抱いて。

あの時生まれた恋心を、今も大切に胸に抱いて。

今は二人で歩いています。


 家の門が見えた時、主は三鷹さんの親指の付け根にある小さな黒子ほくろを見てから、三鷹さんの目を見てお礼を言いました。


「傘ぐらい…」


「違うの。いつも、私や私の宝物を護ってくれて、ありがとう。大好き」


 その一言は、激しい雨に負けることなく三鷹さんに届きました。


「… 桜雨」


 三鷹さんの足がピタッと止まって、主を見つめる目が大きく見開かれました。


「私が卒業するまで、もう少しだけ待っててね」


 主は力いっぱい三鷹さんの腕を引っ張って、同時に主自身は出来るだけ背伸びをして…


「大好き」


 今度は雨で消えそうなぐらいの声で、三鷹さんの耳元で呟くと、そのままシャープな頬に、小さな唇を軽く当てました。


「送ってくれて、ありがとう」


 主は首まで真っ赤にして、篭バックを抱えたまま、走って玄関に向かおうとしました。けれど、三鷹さんがその肩を確りと捕まえて、ギュッと抱きしめました。

 傘が、落ちました。雨から主を守る様に、三鷹さんは主の傘になります。


 雨は冷たいけれど、その分お互いの体温がしっかりと感じます。雨の音で耳は煩いけれど、お互いの鼓動を全身で聞きます。


「待つ」


 それは、ほんの少しの間でした。でも、主には長く感じられました。三鷹さんは耳元で囁くと、落ちた傘をさしてちゃんと玄関まで送ってくれました。ほんの数歩でしたけど。


 主は玄関のドアが閉まっても、暫く動けませんでした。篭バックを抱きしめたまま、首まで真っ赤にして、座り込んでしまいました。


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