■その206 君にとって、俺は必要?■
夏休みも後半です。
「はぁ… 俺も受験生の教員なのになぁ」
お部屋で荷物の準備をしながら、梅吉さんは呟きます。まぁ、合宿先で洗濯をするので、着替えは必要最低限ですむんですけどね。大きなスポーツバッグを覗き込みながら、荷物と一緒にため息も詰めています。
「しょうがないじゃない、大学受験や就職試験に体育って殆どないんだから。水島先生は講習会持ってるんだから、行けないでしょう。兄さんが行かないで、誰が剣道部の指導するのよ」
バスタオルや歯ブラシ、石鹸といったアメニティグッズを持って来た
「一人が寂しいなら、秋君、連れて行く?」
桃華ちゃんは梅吉さんの隣に腰を落として、大きなスポーツバッグの隣にアメニティグッズを置きました。そして、入れ忘れが無いか中身をチェックします。
「有能な番犬は、お姫様達の傍じゃなきゃね。兄さんは、1人でも大丈夫よん」
梅吉さんのいつもの軽口も、どこか寂し気です。桃華ちゃんは「しょうがないなぁ」とため息をついて、荷物の一番上に小さなお守りを置きました。
「去年の合宿、水島先生、大変なことになったでしょう? 私も桜雨も、兄さんが一人で行くの、すんごく心配だから… お守り。兄さんと部員の皆が、無事に帰って来ますようにって。2人で、神社に買いに行ったんですからね。」
梅吉さんは荷物の一番上に置かれた小さなお守りをジーっと見つめています。桃華ちゃんは、そんな梅吉さんをジーっと見つめます。
桃華ちゃんが笠原先生に永久就職のお返事をした夜から、梅吉さんは元気がありません。あの夜、笠原先生に対して随分怒っていましたけど、坂本さんに諭されて、三島先生に何度目かの告白をされて… 笠原先生にも
「兄さん、怪我しないで帰って来てね。
「… そうだな、うん。怪我無く帰って来るよ」
梅吉さんは、桃華ちゃんと主に聞きたい事があるんです。でも、その言葉をいつも、今もグッと飲み込んじゃいました。いつもは気づかないフリをする桃華ちゃんですが…
「兄さん、私や桜雨に聞きたい事、あるんでしょう? ちゃんと、聞いて。なぁに?」
今日は、思い切って聞きました。
「… いや、無いよ」
切れ長の黒い瞳に真っすぐ見つめられて、梅吉さんは心の奥まで見られているようで、スッと顔を背けました。
「私、これから受験の追い込みに入るの。なのに、そんな兄さんを見ていたら、受験に集中できないわ!」
桃華ちゃんは梅吉さんのホッペをパン!っと両手で挟み込んで、強引に自分の方に向けました。
「ちゃんと、私に聞いて」
そんな桃華ちゃんに、梅吉さんはちょっと驚きました。けれど、直ぐにいつもの優しい瞳に戻って…
「うん、そうだな。あのな…」
自分のホッペを包む白い手に、梅吉さんは自分の手を乗せて続けます。
「子どもじみた感情だと、分かっているんだよ。笠原のことも三鷹のことも、ちゃんと認めてる。あの二人なら、お前たち二人を任せられるって…
でもさ、やっぱり心配なんだ」
話しながら、だんだんと眉間に皺が寄っていきます。気持ち下がった目尻に、ちょっとづつ涙が溜まっていきます。
「お前たちの事が心配で、その反面、俺はもう必要ないんじゃないかって、気持ちが重すぎて、お前たち二人の邪魔にしかならないんじゃないかって… 桃華、お兄ちゃんは、もう必要ないか?」
口元を震わせながらも、梅吉さんは笑おうとしていました。
「兄さんは、必要とか必要じゃないとか、そんなのじゃないでしょう! それでも聞きたいなら…」
桃華ちゃんは、コツンと自分のオデコと梅吉さんのオデコを合わせました。
「大好きよ、兄さん」
「私も、大好き」
ドアの影で様子を見ていた主が飛び出して来て、梅吉さんを後ろから抱きしめました。
「桜雨ちゃん…」
ビックリした梅吉さんは、反射的に顔を腰のあたりに向けました。桃華ちゃんの手にホッペを包まれたまま。
「梅吉兄さん、大好き。あ、三鷹さんには内緒ね、焼きもち焼いちゃうから」
「素直になるのは、今日だけなんだから」
今度は、桃華ちゃんが梅吉さんをギュッとしました。
「三島先生と仲良くなっても、私達は兄さんの事、大好きだからね」
「え?! なんで? ここで三島先生?」
妹Sにサンドイッチ抱っこされて、梅吉さんは嬉しいやら恥ずかしいやら、戸惑うやら… 止めに三島先生の名前を出されて、アタフタしています。
「あ、三島先生の応援するとかじゃないわよ。勝手にどうぞ、って感じかしらね」
「そうそう。三島先生の邪魔もしないけどね。まぁ、そんな暇もないし」
そうですよね、桃華ちゃんは受験勉強に集中しなきゃだし、主も就職の事がありますもんね。邪魔する暇なんて無いですし、その気があったら、三島先生がお泊りした日に出来ましたもんね。あの日は、当たり障りのない会話で終わりましたもんね。
「美味しいご飯、期待しててね」
主がニコニコして言うと、梅吉さんはいつもの笑顔で大きく頷きました。次の日の朝、主と桃華ちゃんにお見送りされて、梅吉さんは機嫌よく合宿へと出発しました。
その日の夜でした。主と桃華ちゃんが、リビングのローテーブルで双子君達とお勉強をしている時、お家の電話が鳴りました。一番集中していなかった
「… はい、今、代わります。お姉ちゃん、三島先生が…」
見る見るうちに表情が硬くなった夏虎君が、受話器を主に向けました。そんな夏虎君を見て、主は桃華ちゃんと心配そうに顔を見合わせてから、そっと立ち上がりました。
「… はい、お電話代わりました、
夏虎君から受話器を受け取ると、主は緊張しながら耳に当てました。
「三島です。… 落ち着いて聞いてね…」
受話器の向こうから聞こえる三島先生の声は、酷い涙声でした。