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第202話 永久就職へのお返事

■その202 永久就職へのお返事■


 桃華ももかちゃんは、お店のカウンター席がお気に入りです。ご両親が切り盛りしている、大きくはない喫茶店。木目調に整えられて、流れるBGMはお父さん・勇一さんの趣味のクラシック。カウンターの一番奥に置かれたレコードは、まだまだ現役です。


 桃華ちゃんはお店を閉めた後の、その日の温もりと珈琲の香りが残る店内が大好きなんです。ぼ-っとしたい時、考え事をしたい時、一人になりたい時、桃華ちゃんはレコードのすぐ隣りに座ります。明かりは、カウンターの上だけ。柔らかい、オレンジ色の光です。


 カウンターの上には、マグカップから湯気のたっているミルクティー。その横に、銀色に輝くハート型のジュエリーボックスがありました。三本の猫足が付いて、桃の花が透かし彫りされているそれは、底のねじを回して、蓋を開けるとナット・キング・コールの『LOVE』が流れます。

 桃華ちゃんは、その小さな音色を聞きながら、ジュエリーボックスの中を見つめています。薄桃色のベルベットが敷き詰められている真ん中に鎮座しているのは、小さな一粒ダイヤの指輪です。


「あら、このタイミングで?」


 不意に聞こえた声に、桃華ちゃんは慌ててジュエリーボックスを両手で握りしめるように隠しました。


「見ちゃった」


 そ~っと後ろを振り返ると、お風呂上がりの美世さんがニヤニヤと立っていました。



「朝用の珈琲豆を取りに来たんだけど、良いもの見ちゃったわ」


「兄さんには、内緒にしておいて。煩いから」


 桃華ちゃん、お顔を真っ赤っかにしてお願いします。


「そうね。母さんからより、自分たちで報告した方がいいわね。父さんにも」


 軽く答えて、美世さんはカウンターの中に入りました。珈琲豆を選びながら、チラッと桃華ちゃんを見ます。


「… 父さん、何て思うかしら?反対するかな?」


 座りなおして、両手の中のジュエリーボックスの蓋を開きました。小さなダイヤが、キラン! と店内の小さな光源でも光りました。流れ出るメロディーに耳を傾けながら、ちょっと不安そうな顔です。


「笠原君なら、母さんも父さんも賛成よ」


「え!」


 美世さんの口から笠原先生の名前が出て、桃華ちゃんは驚きました。


「あら、その指輪くれたの、笠原君でしょう? それとも、他の人? 他の人なら、母さん…」


 ちょっと眉を寄せた美世さんに、桃華ちゃんは慌てて答えます。


「笠原先生。他の人じゃない、笠原先生」


「なら、問題ないわ~。ちゃんと歯磨きして寝るのよ」


 桃華ちゃんの答えに満足した美世さんは、目当ての珈琲豆を入れたカっプを持って、カウンターの方から家に戻ろうとしました。


「ちょっ、母さん、気にならないの? 結婚はまだ早いとか、笠原先生とは年が放れてるとか、進路を決めるのが先でしょう! とか…」


 そんな美世さんを、桃華ちゃんは慌てて止めました。


「桃華は、そう思ってるんだ?」


「… 年齢以外は、思ってる」


 ふり返った美世さんに、桃華ちゃんは俯いて答えます。


「だって、普通なら思うでしょう? 私、まだ学生よ?」


「そうね、他の人ならそう思うし、言うと思うわ。でも、笠原君ならいいわよ。ちゃんと、桃華の事を大切に考えてくれているって、分かっているから。まぁ、受験前のこのタイミングにはビックリしたけれどね」


 ニコニコしている美世さんに、桃華ちゃんは下を向いたまま、ちょっと唇を尖らせて言います。


「… 不安なんですって。私が『大人』になって、笠原先生を必要としなくなるのが。私の事には、余裕がないんですって。だから… 指輪は笠原先生にとって都合の良い物で、私にとっては足枷になる物なんですって。… そんなこと、絶対ないのに」


「桃華は、何て答えたの?」


「先生、直ぐに音楽室から出て行っちゃったから… 答えられてない」


 美世さんは、しょうがないなぁ~と言う代わりに、小さく溜息を一つついて、桃華ちゃんに背中を向けました。


「貴女がいいのなら、足枷でも何でも、付けてあげればいいじゃない。その様子なら、その指輪、まだつけてないんでしょ?」


 そう言って、美世さんは鼻歌を歌いながら家へと続くバックヤードに消えていきました。


「… それも、そうか」


 桃華ちゃんは目の前のジュエリーボックスを胸に抱きしめて、バックヤードから玄関を飛び出しました。走って走って… って言っても、お向かいのアパートなんですが…。勢いよく階段を登って、2階の真ん中のドアの前で深呼吸!


ピンポーン!!


 少し震える指先で、玄関のベルを押しました。


「はい、どちら様で…」


「桃華です!」


 笠原先生の声がドアの向こうから聞こえた瞬間、桃華ちゃんは自慢の肺活量を活躍させました。


「こんな時間に、どうしました?」


 お風呂上がりで、半袖パンツ姿の笠原先生がドアを開けた瞬間でした。

その眼鏡の前に、桃華ちゃんは蓋を開けたジュエリーボックスを差し出しました。


「私は、どこにも行かないから。義人よしひとさんが必要なくなる時なんて、絶対にこないわ! でも、義人さんが心配なら、足枷、ちゃんとつけてください!!」


 桃華ちゃん、お顔どころか耳も首も真っ赤にして、睨みつけてるの? って言うぐらい強い瞳の隅に涙をためて、笠原先生に言いました。


「はい」


 笠原先生、そんな桃華ちゃんをギュッと抱きしめました。


「… 桃華」


「笠原っ!!」


 笠原先生が桃華ちゃんの顔を見た瞬間でした。少し先、東条家の玄関から、鬼の様な形相で走ってくる梅吉さんが見えました。


「桃華から放れろっっっおわっ!」


 瞬く間にアパート下まで来て階段を上がろうとした梅吉さんを、大きな影が抱きかかえました。


「明さん、そのままキープな」


「〇×▲桃華―■〇〇△笠原―」


 呑気な高橋さんの声に、梅吉さんの言葉にならない喚き声が被っています。桃華ちゃんと笠原先生がチラッと階段下を覗くと、工藤さんに抱きかかえられた梅吉さんが、これでもかと言わんばかりに両手両足をバタつかせて暴れつつも、東条家に引きずって行かれるのが見えました。


「ッ桃華!! 〇△¥△~」


「はいはい、お兄ちゃんは辛いっすね~」


 高橋さん、そんな二人の横について歩いていましたが、桃華ちゃんの方を向いて軽く手を振りました。


「笠原…」


 微かな声に呼ばれて左を見てみると、少し開いたドアの隙間から、三鷹さんの顔が見えました。


「… 裏切者」


 そう小さく呟いて、ドアが静かに閉まりました。


「桃華、後日、仕切り直しさせてください。俺も、こんな姿なので」


 確かに、恰好が付きませんよね、パンツ姿ですしね。


「あんまり時間が経つと、どこかに行っちゃうかも」


 桃華ちゃんはクスクス笑って、階段を踊るように軽やかに下りていきました。笠原先生は、それを追いかけようとしましたが、階段下で待っていてくれている高橋さんを見つけて、それに甘えることにしました。向かいの東条家からは、梅吉さんの言葉にならない喚き声が、まだ響いてますしね。



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