■その195 希望進路決定3・永久就職の進め■
「現状の成績なら、どちらも推薦できるので楽勝です」
って、担任の笠原先生が太鼓判を押してくれました。その後に、油断しなければ… ってオマケが付きましたけど。
桃華ちゃんの進路指導は、放課後の音楽室。全開になっている窓際、グランドピアノの椅子に笠原先生と肩を並べて座っての指導です。
笠原先生、今日の白衣の下のシャツはショッキングピンクのアロハシャツ。今日も派手ですね。
「進路指導の席がピアノの椅子だなんて、奇抜的」
「教室の机より、ここの方が東条は落ち着くでしょう?」
進路希望のプリント類を片付ける笠原先生を見ながら、桃華ちゃんはちょっと笑って、目の前の鍵盤をゆっくりと弾き始めました。
「ショパンのノクターンですね」
「あまり、上手に弾けないけれど」
「そうは言いますが、ピアノはカエルの合唱レベルの俺にしたら、十分な腕前ですよ」
鍵盤を弾きながら、恥ずかしそうに微笑む桃華ちゃんの横顔を、笠原先生はジィっと見つめています。
「それで先生、進路指導とは別に、お話しがあるんじゃないですか? あまり見られると、穴が開きます」
恥ずかしさを誤魔化してるんですか? 桃華ちゃんの指が少し力強くなりました。
「そうなんですよ。もう一つ、話しというより東条の進路に関して提案があります。ああ、言われると思うので、先に自分から言っておきます。普通、受験生の担任なら、今の時期にこういうことはしないのですが…」
笠原先生の白衣が、夕日色に染まり始めました。眼鏡もキラキラ光っています。笠原先生は、いつもと変わらない猫背で、いつもと変わらない口調で続けます。
「担任の笠原義人の言葉ではなく、君の笠原義人の言葉として聞いてください」
ポン! と、鍵盤を弾いていた桃華ちゃんの指が止りました。ええ、まぁ、こんな前振りされたら誰でも驚きますよね。ドキドキもしますよね。桃華ちゃんのお顔が赤いのは、夕日のせいだけじゃないですよね? 笠原先生は、ドキドキしてますか?
桃華ちゃんも笠原先生も、鍵盤の上に置かれた白い手を見つめたまま動かなくなっちゃいました。
「以前、遊園地のミラーハウスで、俺は貴女にお願いしましたね。『貴女のそばに居させてください、俺はそれを切望してやまない』と。貴女は、俺の存在を拒否することなく受け止めてくれていました。けれど、これからは分からない。貴女達の世界は一気に広がります。けれど、俺の世界は変わらないでしょう。変わるとしたら、この学校から貴女が去ってしまうこと。それは、俺にとっては待ち望んでいる事なのに、同時にとても寂しい事なんですよ」
笠原先生、いつもと変わらない口調でお話を続けます。桃華ちゃんは、ドキドキしたまま、ジッと聞いてます。
「… 一言で言えば、不安なのですよ。貴女が『大人』になって、俺を必要としなくなるのが。
まぁ、驚いていますよ。自分がこんなにも君が居ないと駄目だなんて、思っても居ませんでした。気持ちが、掻き乱される。年上の、社会人だと言うのに、情けないにも程がありますね。たった一人の少女に、こんなにも気持ちを縛られて。まったく、余裕がない。だから… これは俺にとって都合の良い物で、君にとっては足枷になる物です」
白い鍵盤の上、桃華ちゃんの白く長い指の横に置かれたのは、桃華ちゃんのサイズの指輪。窓から差し込む夕日を反射して、オレンジに輝く小さな一粒ダイヤとシルバーのウェーブライン。
「これって…」
2人の間にある指輪に、どちらも手を付けません。桃華ちゃんが指輪を見たのは一瞬で、直ぐに笠原先生を見ました。ようやく、笠原先生と桃華ちゃんの目が合いました。
「大学受験の前に、俺のところへの永久就職、いかがです?」
笠原先生は、いつもと変わりません。
いつもと変わらない、雑に輪ゴムで一本にまとめた髪。
いつもと変わらない猫背。
いつもと変わらない白衣。
中のシャツは今日の幸運カラー…
いつもと変わらない眼鏡の顔は、夕日に染まって赤く見えました。