■その194 希望進路決定2・留年生徒と問題児の場合■
近藤武は、柔道のスポーツ推薦で入学した、スポーツ科の生徒でした。柔道部の部長として3年生の去年、インターハイのチケットをかけた試合で大怪我をしてしまい、単位も点数も足りずに留年。怪我の後遺症もあり、もう1年をスポーツ科で過ごすのは無理なので、普通科進学コースのこのクラスに来ました。
「さて、この1年で色々考えが変わったかと思いますが…」
小学生の頃から柔道漬けの生活だった近藤は、筋肉の鎧を身に纏っている印象でしたが、やはり1年半勉強中心の生活になると、筋肉も落ちますね。それでも、『もやし』には程遠いいですが。
「『理学療法士』の専門学校に進みます」
「『柔道整復師』や『実業団の柔道部』ではなく?」
正直、柔道を完全引退してしまうのは、勿体無いと思うのですがね。
「柔道は挫折しました。体の怪我は治りました。けれど、心はまだ完全に立ち直っていません。それに、俺は他の生徒より学費がかかっています。両親のおかげで、この1年間しっかり勉強できましたが、1年間の学費という出費は確実に家族の負担でもありました。俺は、少しでも早く、この恩を返したいのです」
武道家としての力強さが、瞳から消えています。1回の大怪我は、彼の長い柔道生活を挫折させるには十分だったようですね。
「柔道に後悔がないと言ったら、嘘です。けれどこの1年間、先生のクラスの一員となって、クラスメイト達から色々な事を学びました。たぶん、柔道家として立ち上がれる日が来るとは思います。しかし、それが何時なのか、俺には分かりません。いつか来るその日まで、ウジウジして過ごしたくはないんです。
俺は単純な男です。怪我をして、体の一部が動かせない経験をしました。
心にも影響が及びました。その状態から、たった一人で立ち直るのはとても難しい。俺は、皆に助けられました。だから、今度は助ける方に回りたいと思ったのです。ウジウジしているより、誰かの助けになった方が、よっぽどいい」
ああ、近藤らしい笑顔が見られましたね。ご家庭の事情もあるでしょうし、話し合いもまとまっているようなので、担任としては応援するしかないですね。
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佐伯倉之進は、2年の2学期に転入してきた問題児。家庭環境、自身の生活の問題等があり、梅吉が未成年後継人となって、俺と一緒に住んでいます。環境が人を作るとはよく言ったもので、彼を取り巻く環境ががらりと変わったせいか、問題行動も少しずつなくなり、今ではよっぽどのことがない限り、暴力で解決しようとはしなくなりました。勉強面でも、友人たちの助けを素直に受けて、成績も右肩上がりですね。
そんな諸々の事情があり、彼の進路指導は自宅のリビング。もちろん、未成年後継人の梅吉も同席でローテーブルを囲んでいます。
「俺、大学で経営の勉強してぇな、って思ってる」
… ビックリです。
「進路希望のプリントには何も書かれていなかったので、迷っているのかと思っていたのですが…」
そう、提出された進路希望のプリントは未記入。
「びっくり~… 剣道で、進まないのかい?」
梅吉も初耳ですか。
「プリント? 書くのがめんどくさかったんだよ。
剣道はもちろん好きだぜ。でも、俺、今までの素行が悪かったからさ、そっちで飯食っていくのは無理じゃん?それなりの事、しでかしてたからさ。
それに、修二さんの店でバイトしたらさ、楽しかったんだよ。働くのも人の笑顔観るのも、剣道とは違う気持ちよさがあってさ。俺、自分の手先が器用だなんて知らなかったし、美的センスもあるってさ。剣道以外で認められたの、初めてなんだぜ」
確かに、この1年程で目つきが優しくなりましたね。表情全体も、柔らかくなった感じです。少しですが。
「勉強もさ、分かると面白いのな。皆、『分からない』って言っても怒らないんだ。双子だって、馬鹿にしないんだぜ。どこが分からないのか聞いてくれるし、田中さんなんか『分かる所まで戻るのが一番いい』って、分かる所から教えてくれるんだ。転校してくる前は、馬鹿にされた事はあったけど、ちゃんと話を聞いてもらえて、教えてもらった事はなかったから、ビックリした。だから、今まで苦手だった勉強が面白くてさ」
年相応の、いえ、少し幼さを感じさせる笑顔に、今の彼の内面が滲み出ています。ああ、この笑顔と言葉を聞くと、田中さんの気持ちがよくわかりますね。
「先日、田中さんが言っていました。
『勉学の面だけで考えると、彼は酷い遠回りをしました』
もちろん、彼とは佐伯君の事です。確かに君は、勉学では遠回りをしました。けれど、その他の事はどうですか? 今までの人生、遠回りをしたと思いますか?」
確かに、彼を導けたのは、俺にとっても梅吉や三鷹にとっても、とても嬉しい事ですね。教師冥利に尽きます。
「いや、思ってねーよ。だってさ、どれが近道でどれが遠回りかなんて、俺、分かんねーもん。ただ、今までの事が無かったら、俺はここには居ないかもしれないじゃん? 俺、今の生活がメチャクチャ気に入ってるからさ、いままでが遠回りだとしても文句はないな」
「そうか、そいつは良かった」
梅吉、俺と同じ気持ちでしょうね。泣きそうなの、分かっていますよ。
「で、なぜに経営?」
梅吉、泣きそうなのを、軽い口調で誤魔化してますね。
「どんな仕事するにしても、経営って付きまとうじゃん? 技術あっても経営ダメなら、飯食っていけないじゃん? だけどさ、技術イマイチでも経営できりゃあ、職人雇えばいいんだから飯食っていけんじゃん」
なるほど。その考えは、佐伯家の血ですかね。
「なぁ、俺、大学受験できっかな?」
問題はそこですね。
「… まぁ、贅沢を言わなければ。推薦は無理です。しかし、今の成績で受験できる所は何校かありますから、まずはギリギリまで学力を上げましょう」
「お、何校かはあるんだ。やったね! 受験できる大学なんか、ないんじゃないかと思ってたからさー」
フム… これは、楽しみですね。もしかしたら、一番化けるかもしれませんね。
「よし! 参考書、買いに行くぞ!!」
「おー!!」
そう言って立ち上がるのはいいですが、目元の水分は拭った方がいいんじゃないですか? 東条先生?