■その148 新たな店子さん、いらっしゃ~い(後)■
夕方の5時。籠を抱えて昇りなれた階段を、そんな事を考えながら上がって、2階の一番奥のドアの前で足を止めると、沈んでいく夕日に染まった商店街が見えました。腕に下げた小袋の中から取り出したのは、端っこに座ったカエルの形が切り抜かれている、薄茶色の本革のキーケース。3本あるキーフックの右に銀色の古びた鍵と、真ん中に新しい金色の鍵。新しい金色の鍵でドアを開けるとそんなに広くない、たたき。たたきに出ているのは、一足の男物のサンダル。たたきと廊下の境に置いてある、一足の女物のスリッパ。男物のサンダルの横に、脱いだ私のサンダルを並べて… お揃いのサンダルが並んでいるのを見るだけで、顔がだらしなくなっちやう…
いけない、いけない。早く、朝食の仕込みをしないと、夕飯の準備が遅れちゃう。
スリッパを小さく鳴らしながら廊下を通って、ダイニングへ。広いダイニングには4畳のゴザが引かれていて、真ん中に大きなちゃぶ台がデン!ちゃぶ台の上には、お仕事の資料と電源が入ったままのノートパソコン。そのパソコンの上に、覆い被さるようにして寝ている
三鷹さん、お疲れね。胃が疲れているなら、白見魚にしようかな? 最近、お仕事が忙しくて、ちょっと頬のお肉が落ちたみたいだし… お夕飯は、やっぱりお肉がいいかな?
筋張った大きな手を撫でて… 頬を撫でる指先に、薄い肉と頬骨の感触。少しかさついた肌に、チクチクする
「甘い」
うっすらと目を開けた三鷹さんに指先を吸われて
「ひゃっ」
三鷹さんの厚い舌先で指先をくすぐられて、思わず声が…
「ひゃっ?」
主の目の前に居るのは、荷解きをしている松橋さんです。
「し、白川さん、つ、疲れちゃった? さっきから、ぼーっとし、していたけど? お、お皿、落ちちゃうよ」
松橋さんは大きな段ボールの中から、新聞紙に包まれたお皿を一枚一枚出しては、その新聞紙を取って、ローテーブルの上に置いていきます。主も、同じ作業をしていたんですけど、いつの間にか…
「あ、ううん… ちょっと、考え事」
主、それは考え事じゃないですよ。妄想です、妄想。妄想で三鷹さんの唇や舌の感触を思い出すなんて… よっぽどバレンタインの時の印象が強烈だったんですね。
「か、顔、赤いよ?」
「何、考えてた?」
心配する松橋さんの後ろから、高橋さんが来ました。悪戯小僧みたいに笑いながら、主に聞きます。
「しょ、将来の事?」
主は、手に持っていたお皿で顔を隠しながら、小さな声で答えました。隠しきれていない耳や首が、真っ赤っかです。高橋さんは、あはははははーって笑って、どこかに行っちゃいました。
「…
そんな様子を、
「… 桃ちゃんだって、考えてたんじゃない? 間取り、一緒なんだから」
そんな桃華ちゃんを見て、主はちょっと唇を尖らせて聞きました。
「… 少しだけね」
「ほら~」
視線をそらして答える桃華ちゃんに、主はニコニコして突っ込みます。
「でも、ほんの少しよ。だって、玄関からはダイニングの一部しか見えないから。… だから、ここ(ダイニング)だけね」
少しムキになる桃華ちゃんですが、大丈夫です、桃華ちゃん。主も、玄関とダイニングしか妄想できませんでしたから。
「あー… な、なるほど」
そんな主と桃華ちゃんを見て、松島さんは何かを察してくれたようです。
「… ねぇ松橋さん、その… 近藤先輩の、男の人のお部屋って、どんな感じ?」
察しの良い松橋さんに、主は恥ずかしそうに聞いてみます。
「えっと… わ、私、まだお部屋にはお、お邪魔、したことがな、なくて…」
松橋さんも恥ずかしそうに答えます。
「こ、こういう事は、大森さんが…」
「悪かった。
大森さんに聞こうと、腰を上げた松橋さんの肩を、戻って来た高橋さんが申し訳なさそうに掴みました。
「引っ越しの手伝いのお礼に、夕飯をご馳走させて欲しいんだ。予定は、大丈夫?」
高橋さんに聞かれて、主達はニコニコしながら大きく頷きました。
「あと、引っ越しのご挨拶もかねて、大家さんご家族も招待してるから、今日はゆっくりしてな、お二人さん」
主と桃華ちゃん、今夜のお夕飯は作らなくていいみたいです。主、ゆっくりできますね。
「じゃあ、今度は『ようこそ』でご馳走させてね、サクさん」
「おっ! 嬉しいね~。俺、二人の手料理大好きだから、楽しみにしてるな」
主が言うと、高橋さんはニカッ! と小さな口を大きく開けて、顔中で喜びました。
「… あの笑顔が女の人かぁ。勿体無いなぁ~」
それを少し放れた所で視ていた大森さんは、小さく溜息をついていました。