■ その144
春休み最後の日。午前の練習が終わって、合唱部員が居なくなった音楽室に一人。窓から入って来る風が気持ちよくて、風が運んでくれる春の香りが好きだから、窓は全て開けっ放しです。
ぴしっと綺麗にアイロンがかかった制服は、襟や袖に朱色の細い3本のセーラーテープの入った、膝下の白いセーラー服。ハーフアップにした艶やかな長い黒髪には、スカーフとお揃いの朱色のリボン。乳白色の肌はほんのりピンク色に染まって、切れ長ですっきりとした黒い瞳は春の光を受けて、宝石のようにキラキラしています。それは、僕の主の
大好きな春風を胸いっぱいに吸い込んで、紅を引いたように赤い唇から、天使の歌声が流れます。それは、皆が聞きなれた学校の校歌でした。
3年生になったばかりの桃華ちゃんは、受験生なので部活は夏前で引退です。いつも、独唱パートを歌って会場をわかしていた桃華ちゃんですが、出場できる大きなコンクールはもうありません。今日は入学式の数日後にある、新入生オリエンテーションで歌う後輩さん達の練習を見に来て、練習が終わった後で一人歌い始めました。
桃華ちゃんは歌う事が大好きなので、時間とチャンスがあると、こうして音楽室で歌います。
「先生、春でも廊下は寒いんじゃないんですか?」
校歌を歌い終わると、桃華ちゃんは音楽室のドアの影に居る人に、素っ気なく声をかけました。
「今来たばかりですよ」
ヒョッコリ顔を出したのは、科学の笠原(かさはら)義人(よしひと)先生で、2年生の時の担任で、桃華ちゃんの両親が経営しているアパートに住んでいます。
伸びた髪を雑に輪ゴムで一本にまとめて、銀縁眼鏡をかけて、生徒たちからは『骨格標本』と呼ばれている体を白衣に包んでいますが、最近は桃華ちゃんや主のご飯を食べているので、体格もですが肌や髪の艶も良くなってきて、健康的になってきました。
でも、猫背気味は治りませんね。
今日の白衣の下は、ショッキングピンクのパーカーです。
「・・・特等席、空いてますけど?」
桃華ちゃん、ちょっと恥ずかしそうに、でもそれを隠そうとして少し口調がきつくなりつつも、目の前の椅子をチョンチョンと指さしました。
「良いんですか?」
そんな桃華ちゃんの事を分かっている笠原先生は、いつもの飄々(ひょうひょう)とした態度で、音楽室に入ってきました。
「笠原先生だから、1曲ぐらいなら構いませんよ。
その代わり、1曲ですよ。
皆とのお花見に遅れちゃうから」
「十分ですよ」
今日は春休み最後の日。
午後から、新しい教科書の配布や、入学式の説明等があるらしいです。
なので、早めに集まって、中庭の桜の下で、皆でお花見をすることになっていました。
お昼を皆で食べるんです。
お重箱の中身は、主と桃華ちゃんが早起きして作って、車で運んでくれたのは桃華ちゃんのお兄さんで、笠原先生の同僚の梅(うめ)吉(よし)さんです。
桃華ちゃんは、目の前のお客様にうやうやしくお辞儀をして、歌い出しました。
今度は、文化祭で独唱した『ビリーブ』です。
桃華ちゃんは、天使が羽を広げるように両手を広げます。
鼻をツンと上げて、高く高く見上げる延長線上には、窓の向こう・・・青く広がる空。
音楽室に響く天使の歌声は、春風が外へと運んでいきます。
笠原先生は、桃華ちゃんを眩しそうに見つめます。
細い体のどこにそんなパワーがあるのかと思うぐらい、高い音も力強く伸びやかに歌っているので、音楽室は狭そうに思えます。
今にも春風に乗って、窓から飛び出した空で歌うのが自然のように思える程です。
最後の声が空に溶け込むと、桃華ちゃんはうやうやしくお辞儀をしました。
「さすがですね。
1人で聞くのがもったいないと言いますか、特別感が凄いと言いますか・・・でも、こんな狭い空間ではなく、貴女には大きな舞台が似合いますね」
笠原先生は、拍手をしながらご満悦です。
「あら、私は歌えれば、場所は何処でも構わないわ。
それに、大きい舞台で歌うのは確かに気持ちがいいけれど、皆と楽しく歌う方が私は好きよ」
確かに。
桃華ちゃん、良く主と歌っていますもんね。
「あと・・・大勢の人に向けて歌うより、大切な人に歌いたいし」
恥ずかしそうにそっぽを向いて、桃華ちゃんは小声で付け足しました。
「桃華・・・」
笠原先生が、嬉しそうに桃華ちゃんの名前を優しく呼んだ瞬間・・・
「さ、先生!早くしないと、お昼が無くなっちゃいますよ。
私も、確り歌ったから、お腹が空いちゃった」
ちょっといい雰囲気になったのを吹き飛ばすように、桃華ちゃんは思いっきり、明るい声で言いました。
桃華ちゃん、大人の雰囲気がまだまだ苦手というか、慣れないというか・・・恥ずかしくてしょうがないんですよね。
笠原先生に名前を呼ばれるだけで、赤面しちゃうぐらいなんですから。
「・・・それは、困りますね。
鮭(さけ)は、ありますか?」
笠原先生は残念そうに、けれど、桃華ちゃんの気持ちを分かって、いつもの調子に戻りました。
ホッとした桃華ちゃんと、少し残念な笠原先生は、話しながら窓を閉めていきます。
「サーモンのカルパッチョ。
少し、多めに作りましたよ」
「ありがとうございます。
急ぎましょうか」
大好きな鮭が食べられると、ソワソワしだした笠原先生を横目で見て、桃華ちゃんはクスクス笑っていました。