■その143 新年度もほんわかスタートです■
春風が運んでくれた歌声は、伸びやかで透き通った独唱。誰が聞いても、学校の歌姫だと分かるその歌声と、髪や頬を優しく撫でていく春風に、中庭で桜の木を背に読書をしている少女の瞼は、ゆっくりと落ちていきました。
卒業式前に咲いた桜が見ごろを過ぎた今、はらはらとその小さな薄ピンク色の花弁を、風任せにしています。
職員室に続く渡り廊下の横の中庭には、中央に大きな桜の樹が一本あります。その立派な桜の樹が落としている花弁は、中庭一面を薄ピンク一色に染め上げて、まるで絨毯です。そんな春の風景の中に、僕の主は溶け込んでいました。
襟や袖に細い朱色の3本のセーラーテープの入った、真っ白なセーラー服。緩やかに上下する胸元を飾るスカーフは、鮮やかな朱色。少し荒れた白い手が持っているのは、大きめの絵本。肩の下まで伸びた猫っ毛は、日が当たっている所は金色に見えるぐらい薄く入れた紅茶色。その髪に縁どられた小さな顔は白く、頬やふっくらとした小さな唇は桜色。小さな鼻、閉じた瞳を縁どる睫毛は金色に近い茶色。髪に、頬に、唇に… 白いセーラー服を、はらはら落ちる花弁が飾っていきます。
僕の主は、高校3年生になったばかりの
今日は春休み最後の日。午後から、新しい教科書の配布や、入学式の説明等があるらしいです。主が午前中から学校に来ているのは、入部している美術部の部室に用があったのと、主の従姉妹の
春風が運んでくれている歌声こそが桃華ちゃんのもので、今の主には子守歌になってしまいました。
「… 桜雨」
そんな主に、剣道着姿の大きな男の先生が声をかけました。
剣道部副顧問の水島(みずしま)三鷹(みたか)先生です。
先生は褐色の肌で、180センチより少し背が高くて、綺麗に筋肉が付いた体格で、剣道着姿がとてもよく似合っています。
力強い黒の三白眼は、見る人に威圧感を与えてしまいがちなんですけれど、主を映す時はとっても、とぉ~っても、柔らかくって優しいんです。
硬めの黒い髪をベリーショートにしていて、口数の少ない唇は、いつもキュッと結んでいます。
水島先生は、主の両親が経営しているアパートの住人さんで・・・
「・・・三鷹さん」
主、名前を呼ばれて目が覚めたようです。
水島先生、もとい、三鷹さんの顔を見て、目尻の少し下がった焦げ茶色の瞳を、キラキラ輝かせました。
そうなんです。
主、三鷹さんのことが大好きで、三鷹さんも主の事が大好きなんです。
けれど、先生と生徒なので・・・
「寒くないか?
油断すると、風邪をひく」
冷えてないか?と、三鷹さんが主の横に胡坐をかいて、桜色の頬に軽く手を添えました。
筋張った大きな手はとても暖かくて、主は気持ちよさそうに目を瞑ります。
「風と、桃ちゃんの歌声がとっても気持ちよくって。
・・・先生、部活は終わりました?」
主はそっと、三鷹さんを見ました。
剣道着姿の三鷹さんは、主の大好きな恰好の1つです。
「終わった。
今日は、午後のホームルームが終われば、帰れる」
言った途端、三鷹さんのお腹の虫が、大合唱しました。
「朝から佐伯君とだと、エネルギー切れちゃうから。
皆がまだだけれど、食べます?」
主は笑いながら、桜の樹の影に置いておいたお弁当・・・お重箱を出してきました。
3段重ねの物が、3つも出て来ましたよ。
「食べる」
三鷹さんの返事を聞く前に、主は手際よくお重箱を広げ始めました。
色とりどりのおかずが、これでもか!って言う程に詰まっています。
三鷹さんは、真っ先に出汁巻き玉子を摘まもうとして、主にペシン!とその手を叩かれました。
「お行儀、悪いですよ」
軽く窘めて、主は紙皿に使い捨ての紙のおしぼりとお箸を乗せて、三鷹さんに差し出しました。
「いただきます」
「どうぞ~」
三鷹さんは袴の上に紙皿を置いて、ちゃんと紙のおしぼりで手を拭いて・・・
やっぱり、一番に箸をのばすのは出汁巻き玉子でした。
「うん、美味しい」
大きな口でバクっと出汁巻き玉子を頬張ると、口の中に広がる玉子と出汁の絶妙なハーモニーに、三鷹さんの頬は緩みます。
「多めに作ったから」
そんな三鷹さんの顔を見て、主の頬も緩みます。
緩んだまま、大きな水筒から、アツアツのお茶を紙コップに注ぎました。
春休み最後の今日は、中庭の桜の下で、皆でお花見をすることになっていました。
午後から授業があるので、早めに集まって、お昼を皆で食べるんです。
お重箱の中身は、主と桃華ちゃんが早起きして作って、車で運んでくれたのは桃華ちゃんのお兄さんで、三鷹さんの同僚の梅(うめ)吉(よし)さんです。
皆、それぞれの用事が終わったら、中庭に集合の手筈でしたが・・・
「あの二人の中に、入っていける?」
「む、無理です」
「東条さんか、佐伯君が来るのを待とうかしら・・・」
主と三鷹さんの様子を窺って、校舎の影から出るに出れないでいる、お腹を空かした田中さんと、松橋さんが居ました。