■その139 春が来ます…『一年後の約束』■
どこをどう走ったか、主は知りません。寝ていたので。気が付くと、車は止まっていて、真っ暗な外からは波の音が聞こえていました。隣で、椅子を少し倒して寝ている
ざざざざざざ…
ざざざざざざざざ…
ただ、暗い海が広がっています。海と空の境も分からない、ただ波の音だけが『海』と認識させます。
ざざざざざざ…
ざざざざざざざ…
波の音を邪魔するものは何もなくて、それは心にも響きました。
「わん」
目を覚ました秋君が、主のコートの中でモゾモゾしました。
「秋君、ちょっ、ちょっとまって…」
慌てる主の事なんかお構いなしに、秋君はコートの中からスルンと飛び出すと… 初めて踏みしめた砂の感触に、右足ひょっこり、左足ひょっこり、後ろ足をしびびびびびび… と、戸惑っていましたが、直ぐに慣れて走り出しました。
「秋君、遠くに行っちゃ駄目よ」
そう言いながら、小走りに秋君を追いかけます。ええ、リードどころか、首輪もしていません。車の中です。
「わんわん」
主が追いかけて来るのをチラチラ確認しつつ、秋君は嬉しそうに飛び跳ねながら走ります。
「わん… わふぅ」
たまに、波に足が浸かるのか、ちょっとだけテンションが下がります。けれど、波が引くと鼻をフンフン鳴らしながら追いかけて、寄せてくる波に鼻を濡らされて、逃げるように走りだします。そんな事を繰り返す秋君を、主はニコニコを見ていました。小走りに追いかけながら。
「秋君、太陽が昇るよ」
吐く息が白く、その向こうがゆっくりと白く輝き始め、その上が濃いオレンジになり始め… 水平線が現れました。
「綺麗…」
水平線は白い線。そこからだんだんと、空と海をオレンジ色が膨張して染めていきます。
「寒くないか?」
「… うん」
ボーっと朝焼けに見とれる主を、三鷹さんが後ろから抱きしめて、自分のコートですっぽりと覆いました。とってもビックリしましたが、主は三鷹さんの体温と匂いに包まれて、嬉しそうに口元を緩めながら、海と空を見ていました。
だんだんと、海と空を隔てる白い光の帯が太くなって、波と雲を染めているオレンジ色がゆっくりと薄くなって… 夜が明けました。
「お誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます」
優しい祝福の言葉に、主は嬉しさを隠さないで答えると、勢いよく体をクルンと回しました。三鷹さんと向き合う体制になって、主もぎゅっと三鷹さんを抱きしめます。
「玄関開いたら、三鷹さん居るんだもん。ビックリしちゃった」
えへへって、ニコニコしながら、下から三鷹さんを見上げる主。… 三鷹さんもビックリしていると思いますよ、今、この体制に。
「誕生日は、少しでも一緒にいたかったからな」
三鷹さん、深呼吸して気持ちを落ち着かせています。
「『おめでとう』は、一番乗り?」
「もちろん」
三鷹さん、一番に『おめでとう』が言えて、満足したみたいです。主をコートで包んだまま、三鷹さんは勢いよく抱き上げると、車へと歩き始めました。
「冷えてないか?」
「大きなカイロが包んでくれたから、大丈夫」
三鷹さんは主を助手席に座らせると、小さな両手を優しく握りしめて、膝まつきます。そして、ジッ… と、主の軽く下がった焦げ茶色の瞳を見つめながら、言いました。
「一度決めた未来を、ずっと歩かなくてもいいんだ。未来は変わるもので、作っていくものだから。その時の心で、決めるものじゃないから。だから安心して、一番やりたいことを選べばいい。やって駄目だったら、次の事をやってみればいい」
「… 一番、やりたい事」
主の中にあった不安や悩みが、仕舞っていたいたもの達が、三鷹さんの言葉で顔を出しました。
「確かに、今は桜雨と東条で家の中を回している。けれど
「なんだか、寂しい。私、必要なくなっちゃうみたい」
軽く唇を尖らす主のほっぺを、三鷹さんは右手で撫でました。
「それは、梅吉も思ったはずだ。
俺は、飯や弁当を作ってもらったり、一緒に色々な経験が出来るのが楽しいし、嬉しい」
「… 少しづつ、弟放れしていかなきゃいけないのね」
失敗すると、梅吉さんみたいになるんですね。主の場合は『ブラコン』ですね。
「大学や専門学校も、高校に通っていた時間と何ら変わりはない。変わるのは、今までの友達が一緒に勉強しない事。けれど、大好きな絵の勉強はできる。今まで以上に、自分の事に時間を使える」
「絵は、描きたいの。… 文化祭用に描いた絵が賞を貰って、正直、絵を描いていきたいと思ったの。絵が認められたって言うより、私自身が認められた感じがしたの。でも、好きなように描きたい。学校に行って、あれこれ言われるのはイヤ… 自分の絵じゃなくなる気がする。我がままって、分かってる。やりたいことが出来るなら、我慢も必要だって… でも、私の絵じゃないのを描くのは、意味がないじゃない?」
主、ちょっと泣きそうです。
「なら、学校に行かずに、描けばいい」
「都合がよすぎるわ」
三鷹さん、ちょっと主から視線を外して、真横を向きました。言おうか止めようか、ちょっと
「小学生の時、俺は将来医者になるんだと思っていた。家が病院で、両親が医者だから。でも桜雨に出会って、少しでも桜雨の傍に居たくて、高校の教師になった。
たくさん勉強したのは、中学受験をしたいと言った桜雨の家庭教師になるため、桜雨の通う高校の教師になるため。
剣道や喧嘩が強くなったのは、桜雨を悪い虫から守るため。桜雨を… 他の男に盗られないため。
俺の未来は変わったし、桜雨が言うならこれからの未来を変えることもたやすいんだ。例えば、『一緒に大学に通って』と言われれば、教師を辞めてもう一度大学生になるさ。
俺は、どこにいても桜雨の元に帰って来るし、桜雨が何処にいっても追いかける。それでも不安なら…」
三鷹さんはコートのポケットから、赤いリボンが付いた白い袋を出しました。
「誕生日プレゼント」
「開けても?」
主はソロソロと受け取ると、三鷹さんが頷いたのを見て、リボンを外しました。
「キーケース…」
中から出てきたのは、薄茶色の本革のキーケースでした。端っこに、座ったカエルの形が切り抜かれています。カタカタと音がしたので、開けてみると…
「… どこの鍵?」
「俺の家」
キーフックは3本。その真ん中に、金色の鍵がありました。
「来年、桜雨の俺への気持ちが変わっていなかったら、この鍵を使って入ってきてくれ。桜雨の未来がどんなに変わっても、俺の家は桜雨の気持ちが変わらない限り受け入れる。その代わり、この鍵を使ったら、もう俺からは逃げられない事は覚えておいてくれ」
ポロ… っと、主の瞳から涙が零れました。一粒零れると、ポロポロポロと、止まりません。三鷹さんは優しく主を抱きしめると、背中をゆっくり
「… 三鷹さん、卒業したら、一緒の傘に入ってくれる? 私の大切な、宝物の傘」
「もちろん。桜雨が望むことなら」
ポロポロポロ… 涙と一緒に、悩みも不安も体から流れ出て、代わりに安心と期待が芽生えました。泣いて泣いて… 落ち着いた頃に、三鷹さんのお腹の虫が大合唱しました。
「ふふふふ…」
目元を真っ赤にしながら、主は笑います。
「わんわん」
いつから戻っていたのか、足元で秋君も笑っていました。そんな秋君には、お散歩袋に入っていたジャーキーです。美和さんが入れておいてくれたんですね。
主と三鷹さんは、美世さんが持たせてくれたお弁当のサンドウィッチを食べて、まだ熱さの残る珈琲を飲みながら、朝日に輝く海を見ていました。