■その138 春が来ます…『桜雨、16歳最後の夜』■
どこまでも続くと思える、長い長い砂浜。風もほとんどなく、打ち寄せては引いていく波は穏やかで、それでも日の出前の真っ黒い海は空との境目がありません。
ざざざざざ…
ざざざざざざ…
僕の主の
ざざざざざざ…
ざざざざざざざ…
うっすらと見える波。うっすらと見える吐く息。子守歌の様な波の音。小さいけれど、温かな命の温もり。
ざざざざざ…
ざざざざざざざ…
■
後数時間で17歳になる夜、主はいつも通り、笠原先生や佐伯君を含めた家族で過ごしていました。誕生日のケーキやご馳走は、誕生日が近い
最近、主は悩んでいました。
もうすぐ高校3年生。自分がこの先、どうしたいのか…
家族との関わり方、家業のお花屋さん、大好きな絵、大学か専門学校で絵の勉強…
主は皆に心配かけないように元気を装っていました。けれど、夜になるとその装いもボロボロと取れて、ぐったりとベッドで横になる程です。
そんな主を、家族は気が付いていました。けれど、どう声をかけていいのか、特にお父さんの修二さんはオロオロし過ぎて、美和さんに
「私と修二さんの子どもですから、自分で納得する答えを出すまで、見守ってあげましょうね」
ようは、『余計なことは言うな』という事で、言葉はやんわりですが、きっちりと釘をさされた程でした。
誕生日の前夜も、主はベッドの上でぐったりしながら、描き貯めているクロッキー帳を秋君と一緒に眺めていました。中は、三鷹さんのクロッキーでいっぱいです。授業中、剣道する姿、食事中、家族や友人との団欒… いろいろな三鷹さんでいっぱいです。
「
ドアの外から、美和さんの小さな声が聞こえました。
「はーい」
「あのね、冷えない様に厚着して。厚めの靴下と、コートも忘れないでね。
準備出来たら、秋君連れて誰にも会わずに、静かに玄関まで来て」
ドアを開けると、お風呂上がりの美和さんが、唇に人差し指を当てながらヒソヒソと話しました。そして、主の返事を待たずに、静かにドアを閉めてしまいました。
「どうしたんだろうね?」
秋君と顔を見あわせて、とりあえず… と、主はお着替えです。美和さんに言われた通り厚着をして、仕上げにフード付きの真っ赤なマントコートを着て、僕を入れた巾着を持って… 左手の薬指にはめた、緑色のガラスのリングを確認して、秋君を抱っこして部屋を出ました。
美和さんに言われた通り、静かに静かに… 廊下と階段を進んで玄関まで下りると、美和さんと美世さんが待っていました。
「お父さん達に見つかると、
美和さんは、流されるままにモコモコのブーツを履いた主に、秋君の首輪とリード、お散歩袋を渡してくれました。
「珈琲、熱いから気を付けてね」
美世さんは珈琲の入ったポットと、お弁当バックを渡してくれました。
「「気を付けて、行ってらっしゃい」」
『?』が頭の中を占めて、両腕に荷物を下げて、秋君を抱っこした主の背中を、美和さんと美世さんが優しく押してくれました。
訳の分からないまま外に出ると…
「
北海道に居るはずの三鷹さんが、目の前に立っていました。
「間に合った…。行こう」
ビックリしている主の手を取って、三鷹さんは修二さんの軽自動車に乗り込みました。
「三鷹さん、出張は?」
「明日の昼前に戻れば、問題ない。シートベルトは?」
助手席に座った主に、三鷹さんはシートベルトの確認をしながら、美和さんと美世さんが持たせてくれた荷物を後ろの席に置きました。秋君は、主のお膝の上です。
「秋、良い子にな。行こうか」
秋君も、三鷹さんに久しぶりに会えてとっても嬉しいんですが、尻尾が千切れるんじゃないかってぐらいブンブン振って今にも飛びつきそうなぐらい嬉しいんですが、三鷹さんに頭をポンポンと撫でられると、主のお膝の上で、いい子にするしかありません。怒られるの、分かっていますから。
三鷹さんの運転は、とても丁寧です。乗り心地がとてもよくて、三鷹さんに会えて嬉しくて、安心して… 本当は沢山お話しがしたいのに、主は車が走り出して直ぐに、眠ってしまいました。静かな寝息をたてている主に気が付いた三鷹さんは、直ぐに車を止めました。
主の背中を半分ほど倒して、後ろの席から出した毛布を掛けてくれました。
秋君は、毛布の上に移動です。
三鷹さんは主のほっぺを何回か撫でて… 深呼吸をして、車を発進させました。