■ その117 不埒者2■
「白川さん、大丈夫? 怪我はない? 白川さん、強いみたいだけれど、体は細いんだから…。こんなに細い体で、よく男を投げ飛ばせるよね」
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「いや… いや、いやいやいや」
心の中で
カエルちゃん!
「お待たせ、白川さん…」
「やっ!」
キスしようとした中先輩の顔を、主は折りたたみの傘の僕で、思いっきり殴りました。
「いっ… たい…」
主、効いてます! もう一発!
「し、白川さん…」
二発目は、こめかみへのクリーンヒット! 効果は抜群で、中先輩の体が大きくのけ反りました。その瞬間を逃す主じゃありません。上半身を起こした反動を使って、中先輩を思いっきり突き飛ばしました。少しだげ、中先輩は後ろに転がりました。
「私は、水島先生の…」
泣きながら後ずさりをして、立ち上がろうとしました。けれど、
光のない、どこまでも黒い空洞の様な目。醜く歪んだ口。赤くなった、右のこめかみ…
「いけないなぁ… 恋人と二人っきりの時に、他の男の名前を呼んじゃァ…。せっかく、食べてあげようと思っているのに…」
主の中で、鏡の中に住む黒い人が思い出されて、呼吸が止まるぐらいの恐怖が主を襲います。去年の夏、合せ鏡の中から出てきた、黒い人。その人も、主の事を…
「大好きだよ、白川さん。今、食べてあげ…」
照明を背負って覆い被さってくる顔は、影そのものでした。怖くて座ったままの主は、目を瞑ることも出来ずに、力一杯僕を握りしめました。その体が、凄い勢いで、左に吹っ飛びました。
「
横から、
「… も、桃… 桃ちゃん」
触れあうほっぺの感触、サラサラとした髪の香り、名前を何度も呼ぶ声、抱きしめてくれる感触と体温に、主は呼吸を取り戻しました。
「間に合って、良かったー。ごめんね、ごめん。迎えに来るのが遅くて」
「違うよぉ… 私が夢中になり過ぎてて…」
「ストップ!
梅吉さんの必死な声に、主はハッとして辺りを見渡しました。左側で、倒れた中先輩の上で鼻息も荒くマウントを取った三鷹さんが、梅吉さんに羽交い絞めにされていました。両方の拳が赤く染まっています。
「これ以上は
「三鷹、待て!ですよ」
梅吉さんが、何とか三鷹さんの腰を少し上げた瞬間、笠原先生が勢いよく三鷹さんの下から、中先輩を引きずりだしました。
「こっちは任せて、貴方はあちら」
言われて、三鷹さんは主を見ました。剣道の稽古や試合とは、また違った狂暴な顔に、主は少し怖くなりました。鼻息も荒いし、中先輩の返り血もついてますもんね。
「水島先生、顔!! 手にも血!!
そんな三鷹さんに、桃華ちゃんが睨みつけながら怒鳴りました。言われて、主が怯えた顔をしていると気が付いた瞬間、頭に上っていた血が一気に下がったようです。今度は、情けない顔です。
「… 桜雨」
慌てて手の血をハンカチで拭って、主に恐る恐る差し伸べながら、近づきました。
「
そんな三鷹さんに呆れながらも、桃華ちゃんは主を放しました。
動けない主は、そっと手を伸ばします。三鷹さんはその小さな手を取って、一気に引き上げて抱きしめてくれました。
全身を包んでくれる温もりと、香りと、力強く打っている心臓の鼓動に、不安や恐怖心が一気に解けて、涙になって主の中から流れて行きました。
「あー、立派なストーカーですね。まぁ、三鷹には負けてますが」
中先輩を縛り上げている梅吉さんの横で、笠原先生が画面がヒビでバキバキになったスマートフォンをチェックしていました。データーホルダーの中は、主の写真しかありません。
中先輩の顔は… 鼻が折れたようで、鼻血が酷いですね。
「水島先生に勝つ人なんて、いるのかしら?」
中先輩と三鷹さんにご立腹のまま、桃華ちゃんは散らばった物を纏めてくれていました。
「俺の記憶の中には、該当する人物はいませんね。とりあえず… 理事長ですかね」
梅吉さん、気を失っている中先輩の身体検査中です。笠原先生は、自分のスマートフォンで電話をかけ始めました。
「白川さ…」
唸るように、中先輩が呟いた瞬間、梅吉さんの拳が右のほっぺにめり込みました。
「気安く、うちの従妹(いもうと)の名前を呼ぶな」
ざわッと梅吉さんの周りの空気が変わって、殺気が漂いました。けれど、誰も止めません。
「
こっちは、片付けておく」
「東条」
三鷹さんは頷くと、しゃくり上げている主を抱いたまま、桃華ちゃんを促して歩き出しました。
「兄さん、笠原先生、夕飯を用意しておくから、冷めないうちに帰って来てね」
桃華ちゃんはまとめた荷物を抱えて、三鷹さんの後に続きました。美術室を出る前に、チラッと笠原先生を見ると、笠原先生は小さく頷きました。
暗い廊下を歩きながら、桃華ちゃんは話します。
「桜雨、今夜はカレーにしましょうよ。私、いつもと違うルーを使ってみたいの」
小さな子供のように三鷹さんに抱き着いていた主は、下から桃華ちゃんの声が聞こえて、少しだけ顔を上げました。
「新発売の、真っ赤なルーね」
「そうそう。あのCMのやつ…」
主から返事が帰って来て、桃華ちゃんは嬉しそうにCMソングを歌い始めました。校舎内に響く楽し気な歌声に、主はいつもの放課後に戻ったと感じました。