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第116話 不埒者1

■その116 不埒者1■


「今まで待たせてごめんね。寂しかったよね。僕がキス、してあげるよ」


 人気のない薄暗い美術室。手が、主を捕まえようと、ぬっ… と伸ばされました。



 お気に入りの窓から差し込む夕日が夜の色に変わった頃、入ってくる風も冷たさを増しました。

 美術室の一番奥の窓際で、いつものようにキャンパスに向かって座っているのは、もうすぐ高校3年生になる僕の主、美術部の桜雨おうめちゃん。他の部員は帰ってしまって、主の上の電気だけ、まるでスポットライトのように点いているのは、いつものことです。


  憑き物が憑いたように、間の前のキャンパスに絵を描くことだけに集中し過ぎて、周りが見えなくなる事が、たまにあります。今日が、その『たまに』の日でした。


 今日のキャンパスは、少し小さめです。A4サイズより、少しだけ大きいぐらいでしょうか?描かれているのは、闇の中で真っ赤に輝く一輪の薔薇。よく見ると、その闇は俯いている女の人でした。いえ、胸の位置で咲き誇る薔薇を、愛おしそうに見つめる女の人です。鼻の下からしか描かれていないのに、愛おしそうに… と見えるのは、その口元がとても柔らかくウェーブを、薔薇を持つ手が優しく、描かれているせいでしょうか?


 美術室の暖房は切られていて、開けっぱなしの窓からは冷たい風が入っているのに、絵を描き終わった主の体は、汗でビッショリでした。集中力も体力も使い切って、へとへとで椅子の背にもたれ掛かりました。


「どうぞ」


 すっと、後ろから白いタオルハンカチが差し出されました。聞き覚えのない男の子の声に、主の背筋はピッ!と伸びました。


「あ、ありがとうございます。… あのぉ」


 椅子から立ち上がってその人を見てみても、誰だか分かりません。学校の制服は着ているので、生徒という事しか分かりません。


「初めまして。僕は3年A組のあたるしんです」


「あ、はい… 初めまして」


 唯一の電気が、ギリギリ中先輩を照らしています。タオルハンカチを差し出したままの中先輩は、特徴のない人でした。

 細くも太くも、高くも低くもなくて、顔にもこれといった特徴が無くて、黒髪も耳を出すスタンダード… 特徴がないのが特徴でしょうか?


「僕、白川さんの事が大好きなんです」


 口元が、微笑みの形に歪みました。


「… ありがとうございます」


 いつもの告白とはちょっと違う… 主は、そう肌で感じて、自然と距離を取りました。


「僕も中学からこの学校に入ったので、白川さんの事をずっと、ずっと見ていたんですよ」


 ここに桃華ももかちゃんがいたら、『ストーカー』って突っ込まれますね。


「水島先生には負けますけど、僕だって、白川さんの事が大好きで大好きで…」


 三鷹みたかさんに負けてるって、自覚はあるんですね。でも、三鷹さんは、そんな怖い顔を主には向けませんよ。中先輩、笑っているようですけれど、その表情がお面みたいです。光のない黒い目が、瞬きひとつしないで、ジッと主を見つめています。


「ご飯も、勉強も手に付かなくて。… でも、最近の白川さん、夢の中では水島先生じゃなくて僕を選んでくれていて…」


 声と言葉が、だんだんと変わってきました。視線が、声が、言葉が、ねっとりと肌にまとわりつく感じを覚えて、主はその顔を見つめたまま、ゆっくり、本当にゆっくりと後ろに下がり始めました。


「夢の中じゃぁ、僕の白川さんなのに…」


 ここで、中先輩はポケットからスマートフォンを取り出しました。


「いくら僕がこっちの世界で白川さんを可愛がってあげないからって、こんな事、ダメですよ」


 スマートフォンの画面には、三鷹さんにほっぺにキスをしてもらう寸前の、主の姿が映し出されていました。これ、新年会の時、秋君のお散歩に出た時のですね。


「どうして、その写真…」


 ビックリして、主の顔から色が無くなりました。


「ずっと見てるって、言ったじゃないですか」


 中先輩の口元が、更に歪みました。スマートフォンを見せながら、少しづつ主に近づいて来ます。


「少しでも白川さんの近くに居たくて、塾だって、白川さんのお家に一番近い所にしたんですよ。でも、いつもいつも、邪魔が居て…。最近は、あの犬…。

 僕にもっと勇気があったら、こんな奴を相手にすることはなかったのに。

僕がなかなか告白しなかったから、寂しかったんですよね? 僕からの告白をずっと待ってて、寂しくて寂しくて、つい…」


 狂気。


 その言葉がぴったりです。中先輩、スマートフォンの画面をチラッと見た瞬間、眉間に皺を寄せてスマートフォンを床に叩きつけました。


「してない… キス、されてない」


 こんな告白は初めてで、怖くて怖くて怖くて… 泣きだしそうになりながら、主は心の中で僕と三鷹さんの名前を何度も呼びながら、大きく後ろに下がりました。


「良かった。汚されてなくって」


 主が下がった分、中先輩がずいっと距離を詰めてきました。


「今まで待たせてごめんね。寂しかったよね。僕がキス、してあげるよ」


更にずいっと…


「いやぁ…」


 ポロっと涙が一つ零れた瞬間、水道の栓を開けたように、ボロボロと零れます。


「泣くほど嬉しいかぁ。そんなに喜んでくれるんなら、もっと早く告白すればよかったな」


 中先輩の手が、主を捕まえようとぬっ… と伸ばされました。


「待ってない」


 主は泣きながら逃げようと後ろを向いた時、荷物を置いていた机にあたって、荷物ごと仰向けに転んでしまいました。



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