■その77 浮かれてもいいじゃない?先生がいるから大丈夫 ■
文化祭、2日目です。
昨夜、
少し前まで、主のお守りは僕だけだったのに…
そう思うけれど、主はいつも学校に行く前、傘の僕をギュッ! と抱きしめてくれるし、変わらず持ち歩いてくれるので、三鷹さんの独占欲の現れだと思う事にしました。
主、今日はクラスのお当番は無いので、午前中は美術部のブースです。
第2体育館の2階、まるまるワンフロアーを使っています。部員の作品展示と、実際に画材を使って絵を描けるスペースがあります。
主の作品は、油絵が2点。
『剣士』
その題名が付いているのは、白と青系の炎の様な闘気を纏った、一人の剣士です。防具や面が濃淡の黒で書かれ、藍色の道着は闘気と溶け合っています。容赦なく振り下ろそうとしているその剣先は、今にも飛び出してきそうです。
『私の歌姫』
横向きの少女は、少しつま先立ちです。春風を連想させる柔らかな空気を受けて、艶やかな長い黒髪をなびかせています。その空気に向けて、細く長い両手をゆったりと開いています。開かれた小さな口は赤い色。
皆、必ず主の絵の前で長く足を止めます。感想を交わす人達や、息を飲み込んで見入る人とか…
僕の主、素敵な絵を描くでしょ?!
って、自慢したいです。でも、主はさっきから元気がありません。朝一番に顧問の先生とお話をした後、美術室に来ちゃいました。
美術室の一番奥、窓際が主の指定席です。いつもなら、窓に向かってイーゼルにキャンパスを立てて描いているんですけど、今は椅子に座って、僕をギュって抱きしめて、開けた窓の外を見上げています。外からは、今日の準備に駆け回る生徒たちの声が、小さく聞こえます。
「
小さな肩に、梅吉さんが優しく触れました。
「梅吉兄さん…」
振り返った主の眉も目尻も、いつにも増して下がっています。予防接種を受ける直前の、秋君の尻尾みたいです。
「顧問の先生から聞いたよ」
梅吉さんは近くの椅子を引っ張ってきて、主の前に座りました。
「… お気に入りの絵だったの。皆の事を想って描いたの。でも… 出しちゃ駄目って」
ポロポロポロポロ… 僕を抱きしめたまま、大きな涙が零れます。梅吉さんは、ハンカチで主の涙を拭いてくれました。
「見たよ、桜雨ちゃんの描いた『家族』の絵。皆の笑顔が暖かくて、素敵だった。家族の事がとても大事なんだって分かるし、見てる俺も、気持ちが暖かくなったよ」
主が泣くのを見るのは、本当に久しぶりな梅吉さんです。主、いつも基本はニコニコ笑っていますから。
「ありがとう。顧問の芳賀先生も同じ事言ってくれた。兄さんと同じこと言って…「だから、飾れないの」って、言われたの」
「桜雨ちゃん、それは…」
主の涙が止まりません。梅吉さん、ハンカチを主に手渡して、よしよしって頭を撫でます。
「大事な家族だと分かるから、守らなきゃ駄目よって…」
「芳賀先生は、うちの事情を知っているから、言ってくれたんだよ。高浜先生が口うるさいのも、同じ理由だ。あの絵、
「家族だもん…」
ちょっと拗ねた声に、梅吉さんは苦笑いです。
「あの絵を、好意的に見てくれる人だけじゃないからね。下衆の勘ぐりで、三鷹や笠原が学校を辞めなきゃいけなくなる可能性がある。そうなったら、
梅吉さん、とっても優しく話してくれます。本当に、お兄さんです。
「私が、学生だからでしょう?」
「うん、そうだね」
「先生の言っている事、ちゃんと分かる。私が浮かれてた…。あの絵を否定されたんじゃないって、分かっているんだけど…」
涙と言葉と一緒に、心に詰まったのも吐き出したんでしょうか? 主はようやく涙が止まって、鼻をすすりながら、顔を上げました。
「桜雨は、頭のいい子だから。頭と心は違うよね。頭では分かっていても、心が付いていかなかったんでしょ」
梅吉さんもいつもの口調に戻って、もう一枚ハンカチを出しました。
「最近、嬉しいことが多かったから… 浮かれすぎてた。ごめんなさい、反省します」
一枚目のハンカチは、涙でビショビショ。二枚目を受け取って、主はそっと顔を拭きました。
「いいんだよ、浮かれたって。まだ、学生なんだからさ。間違えたっていいのさ」
「でも…」
「桜雨ちゃんや桃華ちゃんは子ども。俺たち先生は大人。先生はね、子ども達を導くために居るんだから。いいんだよ、浮かれたって、調子に乗ったって。そこから学ぶこともあるんだから」
梅吉さん、主にウインクです。
「梅吉兄さん、先生みたい」
主の笑顔が戻りました。フニャっと笑ったら、残っていた涙が一粒、ぽろっと零れました。
「桜雨ちゃんたら、酷いわ!」
いつもの調子でおどけて見せながら、椅子から立ち上がりました。
「本当は、三鷹が来るつもりだったんだ。いや、芳賀先生から話を聞いたのは俺なんだけれど、タイミング悪く三鷹が居合わせて…。でもさ、最近の三鷹だと、桜雨ちゃんのことギューってするでしょ? まぁ、今までよく我慢してきたとは思うし、今も手を握るのでストップしてるのは、偉いと思うのよ、俺もね。でもさ、ここ学校だし。学校ってこと忘れて、桜雨ちゃん慰める事に全力使うでしょ?
それこそ万が一、誰かに見られたら大変だからさ。芳賀先生も、それを考慮して、俺だけに話をしたんだけどねぇ…」
梅吉さんが、そっとドアの方を指さしました。視線を向けると、ドアのついているガラス窓に、人影が見えました。
「二人とも、ここ、学校だからね。先生、ここに居るんですからね」
梅吉さんの声を背中に、主は小走りにドアに向かいました。ちゃんと、僕を持ってくれてます。
「
「学校!」
三鷹さんが主の姿を確認した瞬間、梅吉さんが釘を刺しました。
「… 水島先生、今から1枚描きたいんで、お昼の差し入れ、お願いします」
主も三鷹さんと手を繋ぎたいのを、僕をギュって握りしめて我慢しました。
「ああ」
「さ、美術部のブースに戻りますよー」
主が我慢したんだから、勿論、三鷹さんも我慢ですよね。そんな2人の肩をポンポンと叩いて、梅吉さんが促しました。
美術部のブースに戻った頃には、文化祭2日目がスタートしていました。日曜日って言う事もあって、生徒の家族や他校のお友達も、スタートからたくさん来ています。
主はいつもの油絵用のエプロンをして、幾つかセットされた、イーゼルとキャンパスの1つの前に座りました。
「水島先生、お昼ね」
と、三鷹さんにウインクを飛ばして、主はキャンパスに向かいました。
「水島先生、ここ、学校だかんねー」
色々と我慢している水島先生に、三鷹さんは一応と釘を刺して、美術部のブースを放れました。
三鷹さんは、部員が持って来たくれた椅子に腰を掛けて、集中して描きだした主の背中を優しい目で見ていました。