その人影は、鏡の中にできた鏡の段差をピョンピョンと飛び越え、どんどん近づいてきました。廊下はどんどん暗くなっていくのに、その人影はハッキリと見えます。
『私も、カッコいい彼氏が欲しいなぁ…』
その人影の顔が見えそうになった時、不意に鏡の中から声が聞こえました。
『白川先輩みたいに、可愛くなりたいなぁ… 先輩、可愛いの、ズルいなぁ… 水島先生、私も好きなんだけどなぁ… 絵も上手で、ズルいなぁ… ズルいなぁ…』
人影の顔は黒くて、口だけが大きく赤く笑っています。その声は、坂本さんの声で、顔の半分が坂本さんの顔にグニャリと変わりました。
「いや… 違う… 私…」
坂本さんはカタカタ震えながら、座り込みました。
『画力はあるのよ、私。指導してくれる先生が力不足だから、私の力を生かしきれないじゃない。この前のコンテストに落ちたのも、指導力がないせいだわ』
鏡の中の人影は、更に近づいてきます。
今度は、牧田さんの声で、顔の半分が坂本さんのものから、牧田さんの顔に変わりました。
「違うわ…」
『違わないわ。だって私、絵の天才だもの。白川先輩がチヤホヤされるの、正直言って分からないわ』
「そんなこと…」
牧田さんもズルズルと座り込んでしまいました。顔色は、蒼白です。
『そうよね。絵も上手で、家庭的で、可愛くって、モテモテの白川先輩は、ズルいわ。一つぐらい、私にくれてもいいのに。指の一本でも…』
鏡中の坂本さんの声が、更に近くなりました。主は、鏡の中からの威圧感で固まったまま、その影を見ています。見せられています。
顔の半分がグニャグニャと、坂本さんと牧田さんのと順番に入れ替わっています。影の口は少しづつ大きくなり、赤色も濃くなっていきます。まるで、皮膚の表面を切って出てきた血が、どんどん傷口を深くして、どす黒くなっていくように…
「思ってない… 思ってない…」
坂本さんは、両耳を押さえて首を振っています。
『でも、可愛いよね、白川先輩。私も、可愛くなりたいわ。
髪を食べたら、白川先輩の髪になるわ。手を食べたら、あんな絵が描けるわ。肌を食べたら、スベスベの肌が手に入るわ。目を食べたら、大きくてキラキラした目になるわ』
鏡の中からの声は、牧田さんと坂本さんの声になりました。バネ仕掛けの人形みたいに、牧田さんと坂本さんはギチギチと主を見上げました。
主は激しい喉の渇きを覚えました。動けません。
怖い…
逃げたい…
でも、動けないんです。暗いし、音もない… まるで、さっき覗いた鏡の奥のようです。
『白川先輩を全部食べたら、きっと白川先輩になれるわ』
主の足に、坂本さんの手がかかりました。
『白川先輩になれたら、カッコいい彼氏だって出来るし、絵のコンテストにも入賞出来るわ』
主の腕を、牧田さんが掴みました。
『食べちゃおうよ…』
主の足を坂本さんが、腕を牧田さんが物凄い力で引っ張ります。さっき、鏡を運んでいる時に泣き言を言っていたのは嘘かと思うぐらい、強い力です。
主は痛くて痛くて、足や腕がちぎれそうなぐらい痛いのに、悲鳴を上げることも出来ません。喉から出るのは、ヒュ… と言った、呼吸音だけです。乾いた喉に、二人の空いた手がかかりました。
「ぎゃっ!」
その時、主の腕にぶら下がっていた僕が牧田さんの体で跳ね上げられて、牧田さんの顔に思いっきり当たりました。牧田さんは相当痛かったのか、坂本さんを巻き込んで倒れ込みました。
「ゴホゴホ… たす…」
主は乾いてくっついた喉を何とか開けようと声を出しながら、手提げ袋を握りしめました。
カエルちゃん…
主は僕の存在に気が付いて、急いで手提げ袋から僕を取り出しました。
『早く… 食べなきゃ』
鏡の中から、急かす声がします。主は呼吸も整わないのに、僕を胸元に握りしめました。
『それとも、私が食べようか…』
鏡の中の顔のない人影が、姿見の縁に黒い手をかけた瞬間…
「やっ!!!」
主は僕のお尻で、その人影を鏡の中に押し込もうと、思いっきり姿見の鏡を突きました。
バリバリバリバリバリバリ…
雷が落ちたような音が、当たりに響き渡りました。姿見のガラス部分は粉々に砕け落ち、後輩さん達も主も呆然と座ったまま動けませんでした。
「あら~、どうしちゃったの? 重かったら、呼んでくれれば手伝ったのに。怪我してない? 今、お片付けセットと、他の先生も呼んでくるから、動いちゃ駄目よ」
音が聞こえたんでしょうか? 下から上がってきた三島先生が、ビックリして慌てて戻って行きました。
気が付けば、夕日が窓から差し込んでいます。階段の電気もついていました。
「先輩…」
「二人とも、怪我、無い?」
「はい… 先輩… あの…」
罰が悪そうな後輩さん達に、主は真っ白な顔のまま、ニッコリ微笑みました。
「とんだ、ひと夏の経験だったね。帰りに、美味しいモノ、食べて帰ろうね」
後輩さん達は、ごめんなさいって呟きながら、大きく頷きました。
「あらあら、どこか怪我しちゃった? ゆっくり立てる?」
「全身、ガラスだらけね。
ここからだったら、教員のシャワー室近いから、浴びてから帰りなさい」
数人の先生を連れて、三島先生が戻って来てくれました。先生たちは掃除をしながら、主達の通路を確保してくれました。
「割ったの、この姿見だけ?」
姿見の枠と、キャスターだけが残っていました。
「壁の鏡も、割れていませんか?」
そう言った主と、壁を見た後輩さん達は再び固まりました。
「あら? うちの学校、踊り場に鏡を置いてあるところは、ないわよ」
壁に、鏡なんてありません。そこにあるのは、薄汚れたオフホワイトのコンクリートの壁です。鏡があった形跡すら、ありません。
「それにしても、この姿見だけにしては、ガラスの量が多すぎるわねぇ」
先生のその一言に、主は僕をギュギュっと握って、手提げ袋からスマホを取り出しました。LINE電話を掛けながら、主は落ち着こうとしています。
「あ、三鷹さん… ごめんなさい、お迎えを…」
通話になった瞬間、主は途中まで早口でお願いして気が付きました。
ざざざざざざ…
雑音が酷くて、声が聞こえません。こんなにひどい雑音は初めてで…
「もしもし…」
不安が掻き立てられて、泣きそうになった瞬間、雑音がピタリと止まりました。そして、ザラザラとした男性とも女性とも、若いのか年寄なのかもわからない声が、主の耳の飛びこんできました。
『食べたいなぁ・・・』