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第52話 鏡の中の『私』1

 明日は新学期がスタートします。つまり、高校2年生の夏休みは今日で最後。僕の主の桜雨おうめちゃんは、そんな貴重な1日を、学校で過ごしています。運動着に、絵の具で汚れたエプロンを付けた姿で。


 美術室の一番奥、窓際が主の指定席です。窓に向かって、イーゼルにキャンパスを立てるのが、主のお気に入り。視界がキャンパスと空でいっぱいになって、泳いでいる感じになって、気持ちいいそうです。

 今日は夏休み中、クラス活動や家庭での時間をクロッキー帳に描き貯めたクロッキーを眺めて、キャンパスにお気に入りの一瞬を描いていました。


 大きめなキャンパスに、主とよく似た双子の弟君達と小さな子犬が遊んでいます。それを優しく見守る、桃華ももかちゃん、梅吉さん、三鷹みたかさん、笠原先生。暖色系の色でまとめられているその絵は、皆いい笑顔です。


 主は描きながら、少し調子の外れた鼻歌を歌っています。新しいチョコレートのCMソングかな? 周りで作業している部員さん達も、何人かつられて鼻歌を歌ったり、小さな声で歌詞を口ずさんだりしています。そんな時間も、主にはあっと言う間でした。


 今日の集中は、楽しかったようです。相変わらず、トイレも行ってないし、お昼もオヤツも食べていませんが。


 気が付くと、美術室には1年生が2人しか残っていませんでした。窓の向こうはまだ青空ですが、時計を見ると、もう少しで17時になるところです。


「白川先輩、まだ居ますか?」


「私達、この鏡を片付けたら、帰ろうと思うんですけれど」


「お疲れ様です。… 私も、今日は帰ろうかな」


 鏡は、キャスターのついた姿見です。本当は、もう少しやっていたいのが本音なんですよね。けれど、いつも熱中し過ぎて遅くなると迎えに来てくれる三鷹みたかさんは、今日は子犬のために家から出られそうにないんです。双子君達も、三鷹さんの家で子犬と遊びながら夏休みの宿題のラストスパートだし、梅吉さんも笠原先生も、新学期の準備で忙しそうでした。そして何より、夕方のタイムセールに行きたいんです。


「卵、買いたいの」


「卵? ですか?」


 思わず口から出た言葉に、後輩の坂本さんが少しビックリしました。主と同じぐらいの身長で、主よりちょっとぽっちゃり。笑うと両頬にエクボが出来て、可愛いです。


「うん。タイムセールに行きたいから、今日はここまでにするね。片付け、手伝うよ~」


「え、大丈夫ですよ。先輩、タイムセール間に合わなくなっちゃいますよ」


 椅子から立ち上がってエプロンを外す主に、後輩の牧田さんが慌てました。牧田さんはヒョロっとしていて、癖の強い髪を伸ばして無造作に纏めています。ちょっと、笠原先生にイメージが近いかもです。


「大丈夫~。お1人様1パックなの。私が行けなくても、家族が行ってるはずだから。それに、3人で片付けた方が、早く終わるよね」


 言いながら、主はテキパキと自分の分を片付け始めました。


「で、どこまで運ぶのかな?」


「明日の始業式前に、先生たちが身だしなみチェックに使うらしいんです。

なので、職員室にお願いね。って、三島先生が言って行かれました。あ、持って来てくれたのは、顧問と小暮先生です。ちょうどいいところに小暮先生が居たらしくって」


「あはは、小暮先生、優しいね。

 了解~。じゃあ、職員室に持っていこうか」


 カラカラカラカラ… と、三人で鏡を押していきます。キャスターが付いているから、廊下は楽ちんです。が、問題は階段でした。


「先輩に手伝ってもらって、正解でした~」


 坂本さんは、半べそをかいています。


「先輩、意外と力ありますね」


 牧田さんも、ちょっと大変そうです。


 階段を下ろそうとして、下から支えるように牧田さんが、上の右端を主、左端を坂本さんが持ったんですが、牧田さんの支える力が弱かったので、主とチェンジしました。


「お料理やお買い物って、意外と力使うのよ。弟達も、まだまだ抱っこって甘えてくる時もあるし」


 言いながら、主はガシッと鏡を支えながら、一歩一歩確りと階段を下りていきます。でも、主もか弱い女の子です。ちょっと、手がプルプルしていたりします。


「何で、美術室4階なの~」


「坂本さん、力抜かないで。私も、力ないから…」


「もうちょっとで踊り場だよ~」


 まだ、1階も下りていません。とりあえず、踊り場に鏡を置いて、主達は一息つきました。


「鏡、重いね~。あれ? 先輩、荷物持って来たんですか?」


「あ、これはね、お守りだから」


 坂本さん、主の腕に引っ掛けた小さな手提げ袋に気が付きました。ええ、中にはスマホと、勿論、折りたたみぼくが入っています。


「そういえば、いつも持っていますね。大きなお守りだ~」


「… ねぇねぇ、ここ、鏡あったっけ?」


 踊り場の壁、窓の下に、鏡が埋め込まれていました。下から上がって来ても、上から下がって来ても、確りと姿が映る位置です。他の踊り場にはないので、ここに在るのを忘れないはずなんですけれど…


「あ、本当だ。夏休みにでも付けたのかな?」


「でも、今朝この階段使ったよね? 昇降口から一番近いのここだし」


「私も、気が付かなかったな」


 誰も、覚えがありませんでした。


「あ、合わせ鏡。昔、やらなかった?」


 坂本さんが、持って来た姿見を壁の鏡に向けました。三人は、後ろから覗きこみました。左側から、牧田さん。右側から、主と坂本さん。


 いつの間にか、外は日が暮れ始めていました。姿見は窓の外の夕日を反射して、向かい合う無数の鏡の世界がキラキラとオレンジ色に光っています。


「… 奥、色が変わってってる」


 それに気が付いたのは、牧田さんでした。鏡の世界の入り口はオレンジ色ですが、奥に進むほど黄昏ていきます。それは、自然界の時間の経過そのものでした。


「… あ、誰か居る」


 そして… 主は鏡の奥に、動く小さな人影を見つけました。


「「「え…」」」


 誰も、動けませんでした。

 誰も、目を放せませんでした。




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