主は、ジッ… と三鷹さんの顔を下から見つめていました。所処に擦り傷があるのに気が付きましたが、まさか玄関でサンダルに絡まって顔から転んだなんて、主は思わないでしょうね。そんな姿、三鷹さんは絶対に見せませんからね。
「あ、あの…」
声をかけたものの、主は続ける言葉が分かりません。ただ、三鷹さんが追いかけて見つけてくれた事、抱き上げてくれた事、それらが嬉しい事だけは分かりました。
三鷹さんの体温に包まれているのが嬉しくて、気持ちよくって、主は三鷹さんの袖を小さく、そっと握りました。三鷹さんの心臓の音が聞こえます。
多分、走ったから心臓のリズムが早いんだろうな… 汗、凄いな… いっぱい、探してくれたのかな…
そんな事を考えながら、主は三鷹さんに体重を預けました。
「汗、気持ち悪くないか?」
「うん」
自分の胸元に、主の頭や顔の感触を察知して、三鷹さんが聞きました。前を向いたまま。主が頷くのと、三鷹さんが部屋のドアを開けるのは同時でした。ドアのプレートを裏返して、『使用中』にしてからドアを閉めました。
部屋には、大きめの長テーブルと、それを挟んで向かい合うようにセットされたパイプ椅子が2つ。それだけの部屋です。
三鷹さんはイスに主を座らせるんじゃなくて、主を抱っこしたまま、ドアを背もたれにして
「顔、見せてくれないのか?」
「汗とか涙とか… 汚れてるから、ダメ…」
小さく答えた主を、三鷹さんはギュッとしたいのを我慢して我慢して、そっと抱きしめました。
「今は『先生』じゃない」
三鷹さんの熱と、感触と、匂いに包まれて、主の気持ちも頭も混乱しました。主、頭どころか、全身から湯気が出てるみたいです。首どころか、手や足まで真っ赤っかです。
「プレゼントの手拭い、ありがとう。あのおかげで、生きて帰れた」
三鷹さん、そこからですか?主は耳元で囁かれる声に、頷くのが精一杯です。
「心配かけて悪かった」
「… 連絡聞いて心配したけれど、顔を見てホッとした。心配もホッとすることも、三鷹さんのそばで出来るなら、それだけでいいの。だって、三鷹さんも梅吉兄さんも、私や桃ちゃんの事、心配してくれているでしょう?お父さんもお母さんも… それは、大切に思ってくれているからでしょ? だから…」
「そうだな。自分の気持ちが相手に向かっている時は、どんなことをしても心配はするな」
「すぐそばで心配出来れば、すぐに駆け付けることが出来れば… 私はそれでいい」
「うん、そうだな」
思っていることを、言葉にして心の中から外に出す。ただそれだけなのに、主の気持ちはスッ… と落ち着いて、分からなかったモヤモヤの理由が分かってきました。
「でも、今は、それだけじゃイヤ、みたい…」
「イヤ?」
主の小さな小さな呟きは、確りと
「… 俺は、
軟らかな髪の感触を確かめるように、三鷹さんはゆっくりと主の後頭部に頬ずりしました。
「桜雨が、俺以外の誰かを見るのも嫌だ。その小さな口から出る名前は、俺の名前だけでいいと思っている桜雨の全部が、俺のものじゃなければ嫌だ」
少しづつ、少しづつ… 主を抱きしめる三鷹さんの力が、強くなってきました。
「だけど、全身で絵を描く桜雨も、母親のように弟たちの世話をする姿も、友達と一緒に何かをしている姿も大好きだ。俺の中に閉じ込めたら、そんな桜雨が死んでしまうのが分かっているし、これからもっともっと色々な経験をして、もっともっと素敵な
三鷹さん、素直。鼻の頭を、主の首筋に軽くこすりつけてるだけで、それ以上の事はぐっと我慢しました。主はその感触に、ビクッと体を震わせて、小さくなりました。
「桜雨は? 何を我慢してた? 何が嫌?」
「… 三鷹さんの隣に立てるのに… 私… その… お部屋、お部屋に入った事がないわ。いつも、玄関で終わり。いつもは、そんな事何とも思わなかったんだけれど… その…
つまり、双子君に焼きもちを焼いたわけですね。ジェラシーですね。それが分かって、三鷹さん、すご くホッとしました。ホッとして、主に少しだけ体重を掛けました。
「悪い。それだけは、ケジメだから、卒業まで我慢してくれるか?
『特別』の言葉を聞いて、主は嬉しくなりました。
「特別?」
「特別」
「特別なら、我慢する」
主はチラッと三鷹さんを見て、ニコッと笑いました。目とその周りを真っ赤にして、微笑む主が可愛くていじらしくて愛おしくて…三鷹さん、自身の理性を総動員しながら深呼吸です。頭の中で、主のお父さん・修二さんを思い浮かべていました。