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第50話 『特別』だから…

 三鷹みたかさんは、主を抱っこしたまま、図書館の2階を目指して階段を登りました。2階には、個室の勉強部屋が数部屋あるんです。


 主は、ジッ… と三鷹さんの顔を下から見つめていました。所処に擦り傷があるのに気が付きましたが、まさか玄関でサンダルに絡まって顔から転んだなんて、主は思わないでしょうね。そんな姿、三鷹さんは絶対に見せませんからね。


「あ、あの…」


 声をかけたものの、主は続ける言葉が分かりません。ただ、三鷹さんが追いかけて見つけてくれた事、抱き上げてくれた事、それらが嬉しい事だけは分かりました。

 三鷹さんの体温に包まれているのが嬉しくて、気持ちよくって、主は三鷹さんの袖を小さく、そっと握りました。三鷹さんの心臓の音が聞こえます。


多分、走ったから心臓のリズムが早いんだろうな… 汗、凄いな… いっぱい、探してくれたのかな…


 そんな事を考えながら、主は三鷹さんに体重を預けました。


「汗、気持ち悪くないか?」


「うん」


 自分の胸元に、主の頭や顔の感触を察知して、三鷹さんが聞きました。前を向いたまま。主が頷くのと、三鷹さんが部屋のドアを開けるのは同時でした。ドアのプレートを裏返して、『使用中』にしてからドアを閉めました。


 部屋には、大きめの長テーブルと、それを挟んで向かい合うようにセットされたパイプ椅子が2つ。それだけの部屋です。

 三鷹さんはイスに主を座らせるんじゃなくて、主を抱っこしたまま、ドアを背もたれにして胡坐あぐらをかきました。もちろん、主は膝の上です。主は三鷹さんの顔が一気に近くなったので、慌てて三鷹さんに背中を向けました。


「顔、見せてくれないのか?」


 三鷹みたかさんの膝の上で膝を抱えて、背中を向けて俯いてしまったので、主の顔は見られません。その代わり、赤くなったうなじが、薄く入れた紅茶色の軟らかな髪の隙間から、チラチラと見えました。


「汗とか涙とか… 汚れてるから、ダメ…」


 小さく答えた主を、三鷹さんはギュッとしたいのを我慢して我慢して、そっと抱きしめました。


「今は『先生』じゃない」


 三鷹さんの熱と、感触と、匂いに包まれて、主の気持ちも頭も混乱しました。主、頭どころか、全身から湯気が出てるみたいです。首どころか、手や足まで真っ赤っかです。


「プレゼントの手拭い、ありがとう。あのおかげで、生きて帰れた」


 三鷹さん、そこからですか?主は耳元で囁かれる声に、頷くのが精一杯です。


「心配かけて悪かった」


「… 連絡聞いて心配したけれど、顔を見てホッとした。心配もホッとすることも、三鷹さんのそばで出来るなら、それだけでいいの。だって、三鷹さんも梅吉兄さんも、私や桃ちゃんの事、心配してくれているでしょう?お父さんもお母さんも… それは、大切に思ってくれているからでしょ? だから…」


「そうだな。自分の気持ちが相手に向かっている時は、どんなことをしても心配はするな」


「すぐそばで心配出来れば、すぐに駆け付けることが出来れば… 私はそれでいい」


「うん、そうだな」


 思っていることを、言葉にして心の中から外に出す。ただそれだけなのに、主の気持ちはスッ… と落ち着いて、分からなかったモヤモヤの理由が分かってきました。


「でも、今は、それだけじゃイヤ、みたい…」


「イヤ?」


 主の小さな小さな呟きは、確りと三鷹みたかさんに聞こえていました。三鷹さんに聞かれて、小さくうなずいたけれど、主の口はまた閉じてしまいました。言葉にして、三鷹さんに嫌われるのが怖いんです。


「… 俺は、桜雨おうめが俺以外の誰かと話すのが嫌だ」


 軟らかな髪の感触を確かめるように、三鷹さんはゆっくりと主の後頭部に頬ずりしました。


「桜雨が、俺以外の誰かを見るのも嫌だ。その小さな口から出る名前は、俺の名前だけでいいと思っている桜雨の全部が、俺のものじゃなければ嫌だ」


 少しづつ、少しづつ… 主を抱きしめる三鷹さんの力が、強くなってきました。


「だけど、全身で絵を描く桜雨も、母親のように弟たちの世話をする姿も、友達と一緒に何かをしている姿も大好きだ。俺の中に閉じ込めたら、そんな桜雨が死んでしまうのが分かっているし、これからもっともっと色々な経験をして、もっともっと素敵な桜雨おうめが見られるのが分かっているから… 我慢している。今も、この首に噛みつきたいのを、我慢している」


三鷹さん、素直。鼻の頭を、主の首筋に軽くこすりつけてるだけで、それ以上の事はぐっと我慢しました。主はその感触に、ビクッと体を震わせて、小さくなりました。


「桜雨は? 何を我慢してた? 何が嫌?」


「… 三鷹さんの隣に立てるのに… 私… その… お部屋、お部屋に入った事がないわ。いつも、玄関で終わり。いつもは、そんな事何とも思わなかったんだけれど… その… 龍虎りゅうこは… 梅吉兄さんや笠原先生は前からだけれど、今日は龍虎も上がってた」


つまり、双子君に焼きもちを焼いたわけですね。ジェラシーですね。それが分かって、三鷹さん、すご くホッとしました。ホッとして、主に少しだけ体重を掛けました。


「悪い。それだけは、ケジメだから、卒業まで我慢してくれるか? 桜雨おうめは特別だから、ダメなんだ」


 『特別』の言葉を聞いて、主は嬉しくなりました。


「特別?」


「特別」


「特別なら、我慢する」


 主はチラッと三鷹さんを見て、ニコッと笑いました。目とその周りを真っ赤にして、微笑む主が可愛くていじらしくて愛おしくて…三鷹さん、自身の理性を総動員しながら深呼吸です。頭の中で、主のお父さん・修二さんを思い浮かべていました。


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