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第41話 意識が飛ぶぐらい

 夏休みの学校は、放課後に似た雰囲気があります。グラウンドや昇降口前… 校舎の外からは勇ましい部活の掛け声が、校舎内からはブラスバンドの各パート練習や演劇部の発声練習が響いています。

 その『音』と『音』の途切れたちょっとの間が、とてもシィン… としています。僕の主の桜雨おうめちゃんは、その少しの静寂に、放課後との違いを感じていました。


 大きな真っ白のキャンパス。

 僕の主は、その前に運動着姿でちょこんと座って、その白さを眺めています。

 美術部の皆が活動している美術室の一番奥、窓際が主の指定席です。窓に向かって、イーゼルにキャンパスを立てるのが、主のお気に入り。視界がキャンパスと空でいっぱいになって、泳いでいる感じになって、気持ちいいそうです。


 でも、今日は違いました。


 外の音も、校内の音も、他の美術部員が出す音も、真っ白なキャンパスを見つめているうちに、どこか遠くへ行っちゃいました。代わりに、力強く床を踏み切る音、打ち合う竹刀の音、激しい呼吸音、それを整えながら闘気を更に上げていく心音…


 主の意識は美術室から、剣道場に飛びます。


 勇ましい声が飛び交い、汗が飛び散り、殺気にも似た闘気を纏う剣士が一人。剣士は何も恐れません。相手を真っすぐ見据える目に、冷気にも似た闘気を宿して、雄々しく剣を振るいます。


 主の相手は、真っ白なキャンパス。竹刀ではなく筆を、叩きつけるように激しく、大胆に動かしていきます。

 主の耳元で、剣士の呼吸音がします。それに合わせて、主の呼吸も強く速く… 整えて、中に闘気をため込んで…


 誰も、主に声をかけるどころか、近づくことも出来ません。


 主の手から、ペインティングナイフが滑り落ちて、床に音を立てて転がりました。それを合図に、主の意識が美術室に戻ってきました。

 いつの間にか、窓の外は真っ暗です。主の周り以外の明かりも、消されていました。外からも校内からも、美術室からも、主の呼吸音以外は聞こえません。音が、どこかに行っちゃったかのようです。

 主はぺったりと床に座り込んで、そのまま溶けるように、頬っぺたを床につけて、床の冷たさを味わいました。

 冷房はついています。けれど、運動着は寒色系の油絵具で汚れてるし、汗でビッチョリです。剥き出しの腕や足も、汚れてるし汗でビッチョリ。僕の大好きな顔まで…。


「・・・はぁ、気持ちいい」


 コロンと目を瞑りながら仰向けになると、顔を覗き込む気配に気が付きました。


「桃ちゃん?」


 小さな胸が、いつもより早く上下に動いています。


「東条は、梅吉が連れて帰った」


 その声に、主はパッと目を開けて上半身を起こしました。主、素晴らしい腹筋です。


「みた… 水島先生」


「もう、10時を過ぎた。冷やすと風邪をひく」


 三鷹みたかさんが膝をついて、主にスポーツタオルを頭からかけました。そして、三鷹さんのラフな私服姿を見て、顧問が連絡したんだと分かりました。

剣道部、今は早めのお盆休みで部活なしですからね。

 主はアタフタと壁の時計を見ました。確かに、12時を随分過ぎていました。


「ごめんなさい、私、またやっちゃった…」


「大丈夫だ。中等部時代からの顧問だけあって、桜雨の扱いには慣れているな」


 主、集中しすぎて作品の世界には行っちゃうと、時間分からなくなっちゃうんですよね。終わるまで、食事もトイレも休憩も無しで… それを、顧問の先生は分かってくれているので、スイッチが入ると、直ぐに梅吉さんか三鷹さんに連絡が行きます。


 ショボンとした主のほっぺを、三鷹さんの指が、軽く拭いました。青い油絵の具が、三鷹さんの指につきました。


「たまには、良い。家の事は、東条兄妹と笠原がやったから、安心しろ。

俺も、そこで仕事をしていたしな」


 顔を上げて視線を動かすと、一番近いテーブルの上にノートパソコンが見えました。


「文化祭のか? これは…」


 二人は、スポットライトのように、一点だけの明かりを浴びた、出来立ての絵を見上げました。

 白と青系の炎の様な闘気を纏った、一人の剣士。防具や面濃淡の黒で書かれ、藍色の道着は闘気の溶け合っています。今にも、竹刀を容赦なく振り下ろそうとしているその剣士は…


「私の… 三鷹さん」


 主は三鷹さんを振り返って、下がり気味の目尻を完全に下げて、ヘニョっと微笑みました。


「俺…」


 三鷹さん、少し目が大きくなりました。手が、ピクッとしましたけど… 我慢したみたいです。


「うん。先生じゃない、私の三鷹さん。文化祭用に、もう2枚、描きたいかな…。あ、三鷹さんの絵は、もう描けないわ。私の中の三鷹さんを、全部出し切ったもん」


 主、力を出し切ったところか、魂まで出し切ってませんか?ヘニョヘニョ~って、床に溶け込んでますよ。


「そうか…。じゃぁ、少し肉を付けた方がいい。ほら、水分を採って」


 三鷹さんは、そんな主にスポーツドリンクのペットボトルを渡しました。

それをゆっくり飲み始めたのを見て、三鷹さんは主から放れて、ノートパソコンの電源を落とし始めました。


「お肉?」


「ほぼ丸一日飲まず食わずで、ここまでのエネルギーを使うんだ。

あと2枚描き終わる時には、骨と皮だけになる」


 手早くノートパソコンを専用バックに仕舞って背負うと、主をヒョイと抱き上げました。お姫様抱っこです。


「ほら、こないだよりも軽くなっている」


「み、三鷹さん… 服、私の服、濡れてるから…」


 ポン! って、主の顔から音が出たように、僕には聞こえます。それぐらい、主の顔は瞬間的に真っ赤っかになりました。


「東条妹が、着替え一式を持たせてくれた。車の中だがな」


 そう言って、三鷹さんは僕の入っている袋をテーブルから取って、主のお腹に置きました。三鷹さん、僕の事も忘れないでくれて、嬉しいです。


 抱っこされたまま、主は美術室の鍵を閉めて、そのまま、駐車場まで行きましたが… 主、三鷹さんの温もりにホッとしちゃったんでしょうか? 揺れが気持ち良かったんでしょうか? 歩き出して少ししたら、ぐっすり眠ってしまいました。寝息を立てて。


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