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第39話 優しさをくれたのは君

 桜雨おうめが中学受験を控えた冬。白川家のダイニングで、毎週日曜は勉強を教えていた。

 休憩時間に、聞かれたことがあった。


三鷹みたかさんは、カエル、好きですか? 誰かに、傘、貸したままじゃないですか?」


「さぁ… どうだったかな?」


 5年も前の事を、桜雨は確りと覚えていた。その時、俺が『貸した』傘は桜雨の宝物で、お守りになっているのを俺は知っていた。


 目尻が軽く下がった焦げ茶色の瞳で、真っすぐに俺を見ている。白桃のような白い肌も、桜色の小さな唇も、あの頃と変わらない。

 あの日、絵本を受け取った小さな手は少し大きくなって、今は参考書を持っている。


「私、いつでも返せるように、持ち歩いてるんだけど…」


「大切なお守り、なんだろう? ずっと、借りてても大丈夫だよ」


「そっか…。じゃぁ、もう少し、借りておこうっと」


 少し恥ずかしそうに微笑んで、桜雨は参考書に視線を落とした。


 この時、桜雨おうめは春が来れば12歳、俺はその時18歳だった。桜雨が傘を『借りた』その日よりも随分前に、俺は桜雨と出会っていた。


 事あるごとに、君は『カエルの王子様』に助けてもらったと、懐かしそうに話しているけれど…。

 きっと、君は覚えていないだろう。最初に優しさをくれたのは、君からだった。



 俺は5年生になる直前で、家族と喧嘩をしたのは覚えているが、その理由は忘れてしまった。

 3月の桜が咲いた頃。勢いのない雨が降っていた。

 その頃、1人になれる場所は公園の砂場の中にあるゾウの滑り台の下。コンクリートの滑り台の下、湿った砂の上に膝を抱えて、顔を隠して泣いていた。


 いつから立っていたのだろうか? 気か付いたら、カエルが付いた黄色い長靴を履いて、カエルがポッケに付いた黄色いカッパを着て、持ち手にカエルの顔が散らばった黄色い傘をさした、幼女が穴を覗き込んでいた。

 幼女は何も聞かず、俺に傘を差しだした。


「おうめ、カッパさんあるから、だいじょうぶよ」


 少し、舌ったらずな発音でそう言って、ニコニコと傘をさしだす。その笑顔に引き寄せられるように、俺は傘を受け取った。


「おうめのママがね、おしえてくれるの。カエルさんがね、まもってくれるよって」


 それは、その子の母が彼女にいつも言っていた言葉だった。俺が傘を受け取ると、


「「ぶじ、かえる」って、カエルさんが、まもってくれるんだって。

おうめ、ながぐつも、カッパも、カエルさんだから。いっこ、おにいちゃんに、どうぞ」


「ありがとう…」


 お礼を言うと、幼女は両手をその小さな口元にそえて、俺の耳元に寄せた。


「この雨ね、わたしなの。桜のお花がさいたときの雨をね、『おうめ』っていうんだって。ママがおしえてくれたの。

 だから、おうめは、カエルさんとなかよしなのカエルさんは、おうめよ」


 舌っ足らずの柔らかく可愛い声を俺の耳に残して、幼女は雨の中をスキップしながら公園を出ていく。出入り口で、母親らしき人影の傘に入って、行ってしまった。

 暫く滑り台の下で傘を抱きしめて、雨を見ていた。耳に残っていた声が、胸の所まで下りてきた。


 … この雨ね、わたしなの。

 … 桜のお花がさいたときの雨をね、『おうめ』っていうんだって。


桜雨おうめ…」


 名前を口にすると、胸が暖かくなった気がした。雨が止んでしまったのが、残念だった。綺麗な夕日が出たけれど、傘をさして家に向かった。

 傘の縁が景色を切り取って、写真のように見せてくれた。その中に、咲き誇る桜があった。雨に洗われて、夕日に照らされて、いつもより濃い目のオレンジ色の桜を見て、俺は桜雨の頬も、今頃、こんな色に染まっているのかと思った。


 あの日が、『出会い』だった。

 あの日、君が『優しさ』をくれたんだ。



 懐かしい夢を見た… とても懐かしくて、暖かな夢…


 夢から覚めた体は、ヒリヒリとあちらこちらが痛い。特に、上半身が痛む。喉にも痛みがあるし、少し息苦しい。

 視界が定まるのに、少しだけ時間がかかった。白い天井と、視線の片隅に、点滴が見えた。そこまで分かると、右手が誰かに握られているのが分かった。あと、柔らかな感触がある。


桜雨…


 ゆっくり頭を右に向けると、薄く入れた紅茶色の頭がすぐ傍にあった。両手で握っても、俺の右手を隠しきれていない。その手の塊を枕に、桜雨はベッドに頭を乗せて寝ていた。

 寝顔は、幾つになっても変わらない。まだまだ、あどけなさが抜けていなくて…。 ついつい白桃のような頬を食べたくなる。


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