休憩時間に、聞かれたことがあった。
「
「さぁ… どうだったかな?」
5年も前の事を、桜雨は確りと覚えていた。その時、俺が『貸した』傘は桜雨の宝物で、お守りになっているのを俺は知っていた。
目尻が軽く下がった焦げ茶色の瞳で、真っすぐに俺を見ている。白桃のような白い肌も、桜色の小さな唇も、あの頃と変わらない。
あの日、絵本を受け取った小さな手は少し大きくなって、今は参考書を持っている。
「私、いつでも返せるように、持ち歩いてるんだけど…」
「大切なお守り、なんだろう? ずっと、借りてても大丈夫だよ」
「そっか…。じゃぁ、もう少し、借りておこうっと」
少し恥ずかしそうに微笑んで、桜雨は参考書に視線を落とした。
この時、
事あるごとに、君は『カエルの王子様』に助けてもらったと、懐かしそうに話しているけれど…。
きっと、君は覚えていないだろう。最初に優しさをくれたのは、君からだった。
■
俺は5年生になる直前で、家族と喧嘩をしたのは覚えているが、その理由は忘れてしまった。
3月の桜が咲いた頃。勢いのない雨が降っていた。
その頃、1人になれる場所は公園の砂場の中にあるゾウの滑り台の下。コンクリートの滑り台の下、湿った砂の上に膝を抱えて、顔を隠して泣いていた。
いつから立っていたのだろうか? 気か付いたら、カエルが付いた黄色い長靴を履いて、カエルがポッケに付いた黄色いカッパを着て、持ち手にカエルの顔が散らばった黄色い傘をさした、幼女が穴を覗き込んでいた。
幼女は何も聞かず、俺に傘を差しだした。
「おうめ、カッパさんあるから、だいじょうぶよ」
少し、舌ったらずな発音でそう言って、ニコニコと傘をさしだす。その笑顔に引き寄せられるように、俺は傘を受け取った。
「おうめのママがね、おしえてくれるの。カエルさんがね、まもってくれるよって」
それは、その子の母が彼女にいつも言っていた言葉だった。俺が傘を受け取ると、
「「ぶじ、かえる」って、カエルさんが、まもってくれるんだって。
おうめ、ながぐつも、カッパも、カエルさんだから。いっこ、おにいちゃんに、どうぞ」
「ありがとう…」
お礼を言うと、幼女は両手をその小さな口元にそえて、俺の耳元に寄せた。
「この雨ね、わたしなの。桜のお花がさいたときの雨をね、『おうめ』っていうんだって。ママがおしえてくれたの。
だから、おうめは、カエルさんとなかよしなのカエルさんは、おうめよ」
舌っ足らずの柔らかく可愛い声を俺の耳に残して、幼女は雨の中をスキップしながら公園を出ていく。出入り口で、母親らしき人影の傘に入って、行ってしまった。
暫く滑り台の下で傘を抱きしめて、雨を見ていた。耳に残っていた声が、胸の所まで下りてきた。
… この雨ね、わたしなの。
… 桜のお花がさいたときの雨をね、『おうめ』っていうんだって。
「
名前を口にすると、胸が暖かくなった気がした。雨が止んでしまったのが、残念だった。綺麗な夕日が出たけれど、傘をさして家に向かった。
傘の縁が景色を切り取って、写真のように見せてくれた。その中に、咲き誇る桜があった。雨に洗われて、夕日に照らされて、いつもより濃い目のオレンジ色の桜を見て、俺は桜雨の頬も、今頃、こんな色に染まっているのかと思った。
あの日が、『出会い』だった。
あの日、君が『優しさ』をくれたんだ。
■
懐かしい夢を見た… とても懐かしくて、暖かな夢…
夢から覚めた体は、ヒリヒリとあちらこちらが痛い。特に、上半身が痛む。喉にも痛みがあるし、少し息苦しい。
視界が定まるのに、少しだけ時間がかかった。白い天井と、視線の片隅に、点滴が見えた。そこまで分かると、右手が誰かに握られているのが分かった。あと、柔らかな感触がある。
桜雨…
ゆっくり頭を右に向けると、薄く入れた紅茶色の頭がすぐ傍にあった。両手で握っても、俺の右手を隠しきれていない。その手の塊を枕に、桜雨はベッドに頭を乗せて寝ていた。
寝顔は、幾つになっても変わらない。まだまだ、あどけなさが抜けていなくて…。 ついつい白桃のような頬を食べたくなる。