皆さんこんばんは。僕の主の
夕食もそこそこに、片付けも桃華ちゃんにお願いして、お風呂も珍しくカラスの行水で、髪も濡れたまま、部屋に籠りました。集中して、手元の刺繍を朝までに完成させようと、必死なんです。
お部屋のローテーブルには裁縫セットと、そこから出されたものが散らかっていて、その前で前のめりになって手を動かしています。
クーラーが効いていても、じんわりと汗ばむほどの集中です。主、瞬きぐらいしてください…
「桜雨、入るわよ~」
ノックの音がして、お風呂上がりの
「少し、休憩したら?」
「ん… もう少し…」
桃華ちゃんは呆れた溜息をついて、ローテーブルの上を少し片付けて、2人分のアイスティーを置きました。もくもくと刺繍をする主の隣に座った桃華ちゃんは、ベッドに背中を預けて、文庫本の栞が挟まっているページを開きました。アイスティーを一口飲んで、クリーム色の紙に視線を落としました。
パチン
と糸を切って、フー… っと、大きく息を吐くと、主はようやく隣に座っている桃華ちゃんに気が付きました。
「あ、ごめんね、桃ちゃん」
「ちょっと待って、今、良いところ」
今度は、桃華ちゃんが顔を上げません。薄い紙をめくる音が、主の耳に心地よく届きます。切れ長でスッキリしている瞳が、真剣に文字を追う横顔を見て、主の肩から力が抜けました。
桃華ちゃんが持って来てくれたアイスティーを一口飲むと、喉が渇いていたことを、体が思い出したようです。喉を鳴らして、良い勢いで、殆ど飲んじゃいました。
「根詰めると、お肌に悪いわよ」
良いところ、が一段落したんでしょうか?主がグラスを置くと、桃華ちゃんが主を見ながら、アイスティーを飲んでいました。
「桃ちゃん、夕飯のお片付けとアイスティー、ありがとう」
「龍虎(冬龍と夏虎)が、たくさんお手伝いしてくれたから、楽ちんだったわ。
アイスティーの氷、ほとんど溶けて、少し薄くなっちゃったわね。どう?間に合いそう?」
「手拭いだけは、何とか間に合いそう。タオルは、帰って来てから渡そうかな?」
主は、ほとんど出来た刺繍を、指先で優しく撫でました。
「合宿が早まったなら、早く言ってくれなきゃね。ご飯の準備だって、あるんだから」
「先生は、忙しいから…。それに、誕生日の日に帰って来るから」
「誕生日当日に渡せるんだから、急がなくても良くない?」
桃華ちゃんは、主の手元を見ました。剣道部の手拭いです。
白地に、朱色の太い行書体で『白(はく)桜(おう)私立高等学校』と入っています。
主は、梅吉さんにお願いして、新しい手拭いを1本貰いました。本当は、部費で作られている物だから、お金を払おうとしたんですが
「剣道部員は、必要なら貰えるものだから。使うのは、三鷹でしょ?お金はいらないし、貰ったら収支合わすの面倒だから。俺の財布に入れるのも、不味いでしょ?」
そう笑って、梅吉さんはお金を受け取ってくれませんでした。
「頭に巻く手拭いなんてさ、何でもいいんでしょ? 試合じゃなければ。
夏合宿なんて、汗かき放題なんだから、柄は何でもいいから、枚数あればいいんでしょ?」
刺繍の出来は、主の手の影で見えません。
「うん。でも… 怪我無く、帰って来て欲しいから。三鷹さん、夢中になると、周りが見えなくなるでしょ? 滅多に怪我しないけど、やっぱり、心配だから」
そう言って笑う主の顔は、ちょっとだけ大人っぽく見えるのは、なんででしょうか?
「ご利益あるわよ。桜雨がこんなに頑張ってるんだから」
桃華ちゃんは、主の指先をチョンチョンとしました。主の白くて細い指先は、針で作った傷がいくつかあります。主、ボタン付けや普通の縫い物なんかは無難に出来るんですが… 刺繡は苦手なんです。
「ありがとう。もうちょっとだから、頑張るね」
残りのアイスティーを飲み干して、主は刺繍を再開しました。そんな主の横で、桃華ちゃんも読書を再開しました。